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一番安心する音
夕食の支度をしながら、マリコはほうぅとため息をついた。
今日は仕事でミスをしてしまい、顧客にも迷惑をかけてしまった。
先輩の機転で事なきを得たけれど、ここのところどうも集中できていない自分を感じる。
「疲れているみたいだから、今日は早めに帰って休んだほうがいいよ」
優しい先輩はそう言ってくれたけれど、今度はもっと大きなミスをしてしまったらと思うと、お腹の辺りがスンと冷えた。
「ただいまー」
恋人のナツが帰ってきた。
「おかえりなさい」
マリコは努めて明るい声を出したはずなのに、ナツには直ぐに気づかれてしまう。
いつものことだ。
「……マリちゃん、どうしたの?」
「え? な、何でもないよ」
「会社でなんかあったの?」
心配そうに見つめるナツの瞳を見上げたら、思わずポロリと涙がこぼれ落ちた。
「……もう、どうして直ぐに気づいちゃうのよ」
今日こそは黙っていようと思ったのに、結局包み隠さず話してしまった。
「そっか。大変だったね。そんな日はリラックスして早く寝ちゃうといいよ」
「それが難しいんだよね……」
「うーん」
ナツはちょっと考えていたが、スッと立ち上がると台所へ。飲み終えたばかりのペットボトルを丁寧に洗った後、何を思ったかその中に生のお米を入れ始めた。
「ナツ君、何しているの?」
「えーっと、こうすると……」
ペットボトルの蓋をして、マラカスのように振り始める。
カラカラと軽快なリズムが奏でられた。
「もう、何やっているの。ナツ君たら」
呆れるやら面白いやら、マリコは思わず泣き笑いしながらツッコミを入れた。
「お、笑ったね」
ナツは嬉しそうにそう言うと、今度はペットボトルを横にしてゆっくりと回し始める。
「なんだろう? もしかして、波の音とか言っちゃう?」
「正解! 波の音って癒し系の音じゃないかな」
「まあね。そうかも」
二人でしばしザザーッという波の音を重ねながら、夏の浜辺へトリップ気分を味わった。
そのうち、ナツが静かにバラードを歌い始めた。低くて良く通る声。
「やっぱりナツ君の声いいな~。大好き」
マリコはそっと体の力を抜いた。ゆっくりと目を瞑って耳を澄ます。
語りかけるような歌声が、マリコの体を包み込んだ。と思ったら、本当に抱きしめられていた。肌越しに響く歌声が、温かいナツの体温も共に伝えてくれる。
しっとりと歌い上げたナツが、愛おし気にぎゅっと力を込めてきた。
耳を押し当てた胸から、今度はナツの鼓動だけが聞こえてくる。
トクトクトクトク……
「ナツ君の心臓の音聞いていると安心する」
「え!」
驚いたように目を見開いたナツ。でも納得したように頷いた。
「そうか……一番安らげる音って、心臓の音なのかもしれないね。生まれる前から聞いている音だもんな」
「ナツ君、私を励まそうとがんばってくれて、ありがとうね」
「別に。マリちゃんは笑っているのが一番だからね」
互いの鼓動に耳を澄ます。
トク トク トク…… トクン トクン トクン……
静かな時間。最高の安らぎタイム。そして二人だけの幸せな時間。
おしまい
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