狐の嫁入り

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狐の嫁入り

狐の嫁入り  六限目終了のチャイムが鳴った。忙しなく掃除場所に向かう足音と窓を叩く雨の音が響く。足音に混じって聞こえる笑い声が心地良い。 保健委員長である俺は、保健室の掃除を担当している。しん、と静まった保健室で、遠く聞こえるその音を聞くのが、結構好きだったりもする。  いつも通りに保健室のドアを開けると、薄暗い中でこちらを見つめる瞳がある。長い睫毛から覗く少し赤みがかった黒い瞳は、幼馴染の美紅のそれだった。美紅は保健室にある丸テーブルに本を開いて、こちらを見つめている。 「美紅、来てたんだ」 「…………」  俺の言葉に美紅の黒い髪がふっと揺れた。その仕草は頷いたようにも、顔を背けたようにも見える。 「何読んでるの?」 「…………きつね」  昔から一緒にいるけど、美紅の声はずっと前から全く変わらない。雨の音とその声は、十年前の嫌な記憶を思い出させる。  美紅が、狐に取り憑かれた日。  あの日もまた雨が降っていた。梅雨の時期には珍しい天気雨で、まだ六歳で無邪気だった俺と美紅は、雨の中二人で山道を進んでいた。 「美紅。雨がね、葉っぱとかにつぅーってなるの、すっごく綺麗なんだよ」 と俺が手を引いて。美紅はにこにこと笑いながら俺の斜め後ろをついて来た。 「ほら見てっ」 「ほんとだ、すっごく綺麗!」  美紅が綺麗と言ってくれたのがとても嬉しくて、俺は段々と茂みが深くなっていることに気付かなかった。夢中になって綺麗なものがないか探しているうちに、知らない道に出ていた。 「どうしよう……帰り道、分かんなくなっちゃった」 途方に暮れる中遠くに見えたのは、木々に隠れた鳥居。その鳥居を、美紅が指差した。 「篠、あそこ。誰かいるかもしれないから行ってみよう」 「うん……」 古びた鳥居を潜るとそこは稲荷神社で、沢山の狐の置物が並んでいた。所々崩れていたり、苔が生えていたり、あまり綺麗と言える状態ではなかったけど、広く、立派な神社だった。 「わぁ……ここ、いなり神社って所だよきっと。きつねさんが沢山あるから」 「うん……」  美紅は気を遣ってか楽しそうに神社を歩き回る。俺はしょげて、ぽそりと頷いていた。 「そんなに落ち込まないで。大丈夫だよ。きっとちゃんと帰れるよ」 「うん……」 「それよりこの神社、私たちの秘密基地にしようよ」 「秘密基地?」  魅力的な言葉に釣られて顔を上げると、美紅は俺を見てとても無邪気に、とても優しく笑った。 「うん。私と篠、二人だけの秘密の場所だよ。だから、ここのことは誰にも言っちゃダメ」  分かった?と、美紅はいたずらっ子の顔をした。きっと俺も同じ顔をしてたと思う。 それから俺と美紅は、神社を散策した。本殿に入り込める隙間はないかとか、神社というものをよく知らずに仏様を捜したりもした。  はしゃぎすぎて周りが見えなくなっていた俺は、小さな石につまずいた。運悪く、バランスを崩したその先に狐の置物が並んでいて、運悪く、俺はそれにぶつかってしまった。いくら子供と言っても、六歳の男子はそれなりの重さだ。ぶつかった狐は鈍い音を立てて落ちてしまった。  ただ、それだけの、些細なことだ。でも、その些細なことが、狐の神様を怒らせた。  ヒビが入った狐を見つめて動かなくなった美紅の手を強引に引っ張って、俺はそこから逃げ出した。人の気配は全くしなかったけど、誰か大人に怒られそうで怖かったのか、狐の幻覚を見たのか、今となっては思い出せないけれど、ただがむしゃらに美紅を守ろうとしていたことをよく覚えている。  その夜、夢を見た。狐たちが俺に向かって「返せ返せ」と叫ぶ夢だった。鋭く吊り上がった狐の目は、赤く光って俺を見ていた。俺は昼間と同じように、ひたすら逃げることしか出来なかった。昼間と違い、何故かそこに美紅はいなくて、それがとても怖かった。 目覚めてすぐに美紅の家に駆けて行くと、美紅はぼんやりと遠くを見つめて、不気味なほどに、一つも表情を浮かべていなかった。  その日から毎日、友達との約束も断り、美紅を連れて神社にお参りに行くようになった。子供なりの贖罪の気持ちだった。壊れてしまった狐があった場所に花を供え、手を合わせる。あれだけ走って逃げた場所なのに、どこかほっとして心地良いのが、とても嫌いだった。 「………私…」  美紅が不意に言った。その声で、ふっと意識が元に戻る。 「…私、お嫁に行くの……」  微かに微笑んでいる美紅は、どこか嬉しそうだ。 「え……」 「だからもう、学校には来ない」  単調にそう言って、美紅は保健室を出て行こうとする。美紅が横を通り過ぎると、自然の香りが吹いた。 「俺っ……」  俺は反射で、美紅の手を掴んでそのままの勢いで振り返った。美紅は少し面倒くさそうに足を止める。 「俺、美紅が好きだからっ」  しんと静まった保健室に、俺の声がうるさい。 「だから……俺と付き合ってっ」 「…………」  なんとかして美紅を引き留めたくて、俺はそんなことを口に出していた。美紅はなんの反応もせずに、俺の方を見ている。  数秒、俺と美紅は固まった。  ふと、ぼんやりと俺を見つめる瞳が一瞬ブレた。  それは、いつもの合図だった。瞳の赤みはふっと消え、美紅の瞳が真っ直ぐ俺を見つめる。 「篠……? 今なんか言った?」  上目遣いの美紅に、俺は笑いかけた。 「…んーん、何も」 「そっかぁ」  俺が掴んだ手を見て、不思議そうに首を傾げた。 「…美紅、今日も神社に行くから。忘れないでね」  言いながら手を離した。滑らかに滑った白い肌が名残惜しい。 「うん!」  美紅はまるで幼い子供のように笑顔を弾けさせて、保健室から駆けて行った。彼女の黒髪が遠のいていく。 「……なんなんだよ、ほんと」  気を紛らせようと、傍にあった箒で乱暴にゴミを掃いて、そう吐き捨てた。少し、声が震えて、足から力が抜けた。  十年前のあの日から、美紅は変わった。まるで狐に取り憑かれているように、瞳は赤黒く染まり、吊り目になった。誰が何を言っても反応せず、なんの感情も意思も持たなくなった。  一人では何もしようとしないから、俺も美紅の母親も、美紅につきっきりだ。  ただ、稀に。本当に稀に、昔の美紅が戻ってくる。  あの頃と変わらない笑顔を見せ、小さなことで喜ぶ。昔の美紅が戻ってくるタイミングは全く分からない。何年も戻らないこともあるし、一ヶ月のうちに何度か戻って来たこともあった。  一つだけ分かっているのは、美紅が戻ってくるときにはあの赤い目が揺れて、赤みが消える、ということだけだ。  もし、昔の美紅に戻ることがないなら、俺もおばさんも美紅を入院させているだろう。病院なら何か、美紅を直す方法が見つかると思うから。  そうしないのは、美紅が戻って来て見せるあの笑顔が、頭に染み付いて離れないからだった。あんなに無邪気に笑う美紅を、病院に閉じ込めることは、どうしても出来ない。  たとえ数少ないことでも、美紅には綺麗な景色を、見ていて欲しいと思ってしまう。  神社に行く時にはもう、美紅は赤い瞳をしているのだろうけど。 「じゃ、行こっか。美紅」  また、笑わなくなった美紅の手をそっと握り、俺は神社に向かう。瞳が赤い時の美紅は、放っておくとどこかにいなくなってしまうから、一緒に行動する時はいつも、手を引いている。  神社までは、きっと目を瞑っていても辿り着けるだろうな、と最近思う。もう十年も通っているのだから当然なのだけれど、その慣れがなんだか気持ち悪い。  通り道にある花屋で花を買い、花の香りに少し和んだ。 「今日、学校で言ってたよね。その……お嫁に行くって」  人通りが少なくなって来て道で、歩きながら尋ねた。ちらりと美紅を伺うと、軽く頷いたように見えた。いつも、神社に行くときは機嫌が良い。 「あれは、どういうこと?」 「………私は十六になったから、稲荷の白狐様の元に嫁ぐ」  美紅の声で、そう聞こえた。本当の美紅とは正反対の話し方は、とても壁を感じる。 「それは……美紅が自分で決めたこと?」  届くはずはないのに、つい、美紅に問いかけてしまう。 「…私は、昔から白狐様をお慕いしている。白狐様の元に嫁ぐのは、有難いことだ」 「……いつ、お嫁に行くの?」 「…お前に教える意味がない」  美紅がそう言って、丁度神社に着いた。美紅の手を離すと、美紅は鳥居の右端に寄って奥に進んでいく。俺は鳥居の左に寄り、美紅の背中を軽く目で追いながら、いつも通り、並んだ狐の空白の場所に花を添えた。    美紅が、お嫁に行くと聞きました。白狐様という方は、一体どんな方なのでしょう。  どうか、美紅を………  社交辞令も言えずに息が苦しくなった。幸せにしてください、とぐらい言っておかないといけないのに。  美紅がお嫁に行くなんてこと、到底信じられなかった。美紅の幸せは願っても、美紅の隣に俺がいないことは願えなかった。どこまで、自分勝手なのだろう。俺のせいで、美紅は狐に取り憑かれてしまったのに。  息を整えながら目を開けると、赤い目をした、白い毛の狐が目の前にいた。 「…白狐様はとても優しいお方だ。お前が心配するようなことは何もない」 「え…」 「嫁入りの日には、お前も娘の晴れ姿を拝みに来れば良い」  狐は、それだけ言ってどこかに消えた。透き通った、耳に残る声だった。 「…晴れ姿って…。そんなの見たくないよ」  立ち上がって振り返ると、美紅は神社の本殿に腰掛けていた。 「美紅、そろそろ帰るよ」  返事は当然ないのだけど、癖で呼び掛けてしまう。  あの時、美紅はここを秘密の場所にしようと言っていたけれど、ある意味それは叶っている。毎日のように二人で通っているから、秘密基地の非ではない。  また、参道の両端に分かれて鳥居を潜った。 「篠、見て見て。紫陽花が綺麗だね」  後ろから聞こえた声の明るさに、思わず固まった。 「美紅………?」 「ん?」  ぐっと、美紅の瞳を覗き込んで見ると、キラキラと光を拡散している。黒目に赤色は見当たらないし、吊り目だった目も垂れ目に戻っている。一日に二回も戻るなんてこと、今までなかったのに。 「篠、近いー」  ほんの少しだけ頬を赤く染めた美紅が訴える。 「あ、ごめん。びっくりして」 「もーしっかりしてよね」 「ごめんごめん」  なんて、懐かしい会話。滲んだ目元を隠そうと、美紅から顔を背ける。 「ね、篠。知ってる? 雲がないのに雨が降ってることを、狐の嫁入りって言うんだって」  狐の嫁入り。今日になって何度も聞いた言葉だ。なんて返すのが正しいのか分からなくなって、結局何も言えなかい。美紅は黙った俺を気にした風もなく、また声を弾ませる。 「初めてあの神社に行った時も、天気雨だったでしょ。だからさ、もしかしたら、どこかの狐さんが、お嫁に行ってたかもしれないなぁって」  ああそうか。  あの時狐の神様が怒ったのは、きっとおめでたい日だったから。  突然邪魔して来た二人の子供は、さぞ鬱陶しかっただろう。しかも、狐を壊してしまったのだから。怒るのも当然だ。むしろ、今生きていることさえ不思議に思えてくる。  本当に、申し訳ないことをしたな。今更ながら、心が痛んだ。 「…美紅は、狐の嫁入りってどう思う?」  今までの沈黙を誤魔化すように尋ねた。 「私はすごく憧れるなぁ。私だけじゃなくて、女の子はみんな憧れるよ。自分が綺麗な格好をしてお嫁に行くっていうのは、女の子の夢だからね」 「そっか」  美紅がそう思うなら、狐の嫁入りも悪くないかもな。美紅の幸せに、隣にいられないなら、せめて、一番近くで祝おう。  そう、思えた。  美紅の晴れ姿は、きっと綺麗だろうな。   *  それから一週間が経った月曜日。  美紅はいつものように保健室でぼんやりと座っている。 「今日さ、委員会があって遅くなっちゃうから、神社行けないかもしれないんだけど」 「…………」 「出来るだけ早く戻るから、待ってて」  保健委員会の集まりは、なぜか保健室ではない。保健室に体調不良の人がいる可能性があるかららしい。  委員長である俺が遅れる訳にはいかないので、少し忙しなく廊下を走った。 「遅くなってごめん。あれ、美紅……?」  薄暗い保健室に、美紅の姿は見当たらなかった。ベッドにかかるカーテンをめくっても、棚の後ろを覗いても、見当たらない。 「嘘だろ。どこ行ったんだよ」  狐の美紅が自分の意思で動くところなんて俺は見たことがなかった。保健室以外に学校内で寄るところはないはずだから、だとしたら、思い当たるのは家か、あの神社の二つだけだ。  考えるよりも先に、俺は保健室を飛び出していた。傍にあった椅子が倒れた音がしたけど、気にしている余裕はない。 「おばさんこんにちはっ」  学校から近い美紅の家に駆け込むと、おばさんは息の切れている俺に驚いて、目を大きくしていた。美紅と同じ黒い髪を、背中で束ねている。 「おかえり、篠君」  息を整えるついでで、周りを見回すけど、やっぱり美紅の姿はなかった。 「美紅は一緒じゃないみたいだけど…」 「…あー…今日珍しく美紅が寝てたからさ。起こすのもアレだし少し帰りが遅くなると思うから、先に伝えとこうかなって」  咄嗟に考えた言い訳は、果たして上手いのか下手なのか。 「そうなの? それなら連絡してくれるだけで良かったのに」 「最近運動不足だったから…」 「ふふっありがとね」  おばさんの穏やかな声に乾いた笑いを返し、また走った。   *  何年も、眠っているような気分だった。  一番鮮明に残っている記憶は、初めて篠と神社に行った日のこと。それから後は、ぼんやりと霧がかかったように思い出せない。途切れ途切れに、背が伸びていく篠の姿を見たような気もしているけど、はっきりとは浮かんでこない。  その度に、篠の優しい声が恋しくなる。  最近になってやっと、少しずつ記憶が増えている。  そういえばこの前、篠が何か言っていたようだけど、いったい何だったのかな。どうにも、思い出せないままだ。  ふと、頬に風を感じて目を開けた。  すると広がった景色は、神社の鳥居の前。もうしばらく、私はここに来ていない。  少し崩れた本殿と、苔の生えかかった狐の置物。規則正しく並ぶその中に、一つ間が空いている。懐かしいはずなのに、見るのが少し嫌だった。 「あれ、白狐様の嫁さんじゃないか。一人で来るとは、珍しいな」  下からそんな声がして俯くと、狐がいた。ふわふわとした毛と、すっと通った鼻筋。鼻を小さく動かして、声が響く。 「…嫁さんって誰のこと?」 「ここにはお前しかいないだろ」  狐はそう言って笑った、ように見えた。 「私、誰とも結婚してないんだけど…」  まだ十六だし。というのは胸に飲み込んだ。確かに結婚できる歳ではあるけど、そもそも相手がいない。  ちらりと一瞬、篠の顔が浮かんだのはなぜだろう。胸が熱い。 「ほら、狐の嫁入りって聞いたことないか?」 「知ってるけど、それが何なの?」 「お前さんが白狐様に嫁入りするのが、狐の嫁入りってこと」  それでは、まるで白狐様という人が狐だと言っているみたい。いや、実際そうなのかもしれないけど。 「……何で、私がその白狐様のお嫁にならなくちゃいけないの?」  さっきから言葉に棘が混ざっている気がする。 「それは……あっ白狐様の御成だ!」  狐が、興奮したように飛び跳ねた。釣られて、本殿を振り返る。    息が、詰まった。  たくさんの狐たちに囲まれた、白髪の人。  人の形をしているけど、人間とはかけ離れた何かだ。  肌は透けるように白く、それが動く度に揺れる髪は儚げに輝く。髪の隙間から覗いた瞳は燃えるように赤く、鋭い。唇に浮かんでいる微笑みは、心を不思議と癒していく。  あまりの美しさに見惚れて、目が離せなかった。それの瞳が私を向いても、体が動かなくて、目を逸らせない。 「…やっとお会い出来ましたね、美紅」  その優しすぎる声で呼ばれた名前が、私の名だとは到底思わないだろう。名前を教えた覚えはないし、まず呼ばれるとも思わない。でも、それは確かに私の名で、鳥肌が立った。  貴方は誰、と聞きたくて、微かに呼吸をしている口を開く。私が声を発するよりも先に、白髪の彼がふっと笑った。 「直接会って、話をしなければならないと、ずっと思っていたのです」 「…あなたは、一体、誰?」  やっとのことでそれだけ言うと、白髪の彼は瞬きをいくつか繰り返した。 「私はこの神社の狐たちのおさを務めている、白狐、と申します。以後、お見知り置きを」 「…白狐様…ってことは、あなたが私の旦那様?」  尋ねると、白狐様とやらは目を少しだけ大きくさせた。細い目を縁取る睫毛は、その瞳に影を落とす。  周りの狐たちは、白狐様の様子を窺っているようだった。 「よろしいのですか? 美紅の了承は、取れないと思っていたんですけど」 「それは、婚約…の事自体さっき初めて知ったし。それに…」  あなたを見ていると、胸が随分とうるさいの。と、言おうとした瞬間、聴き馴染みのある声が私の名前を呼んだ。 「美紅っっ!」  腕を掴まれ、白狐様との距離が空く。 「……篠」  隣で、はっと息を飲む音がした。きっと白狐様の存在に気づいたのだろう。 「帰ろ、美紅」 「え、ちょっと待って篠」 「いいから早く。帰るよ」  顔は見えないけれど、どうしてか酷く怒っている。私の腕を引っ張る力も、私が知っている篠の力ではなかった。少し痛いほどの強さに逆らえるわけがなく、私は引っ張られるままに歩いた。 「…何であんなところにいたの」  神社を出て少しすると、腕を握る力が弱まった。 「え……?」 「………ごめん、何でもない。腕、痛かったね」  怒っているのに、何でもないわけがなかった。でも、必死にいつもの篠に戻ろうとしているのが分かった。その様子を見て、私は篠を怒りたくなった。 「…私、お嫁に行くんだって。さっきの白い髪の人の所に」 「え……?」 「神社で狐が言ってたの。篠、知ってたんでしょ」  気まずそうに視線を逸らす。返事はなくてもそれが答えだ。 「何で教えてくれなかったの? 私、篠に隠し事されるのが一番嫌。他の人は良くても、篠に嘘つかれたり、気を遣われるのは嫌なの」  そのくらい、きっと篠は分かってる。 「篠が隠してることは、何年も私の記憶が曖昧なのにも関係してるんでしょ」 「……隠してたわけじゃなくて、言えなかったんだ。言いたくなかったんだよ」  逸らしていた篠の視線が、私の視線と重なった。少し苦しそうに、小さく呟く篠は今まで見たことのない顔をしていた。 「何それ」  心がモヤモヤして、視界が暗くなった。じんわり、目が熱く痛む。    暗闇の中に、ぼんやりと白い影が浮かび上がる。目を凝らしてみると、それは狐の耳を生やし、着物を着た人だった。  ここは、もしかして狐の見せる幻覚か。  すらりと背の高い女の人が、私の目の前に来てにたりと笑う。 「あいつは最低だな。自分のことしか考えていない」 「…篠は最低なんかじゃないよ」 「でも事実、あいつはお前に隠し事をしていたんだろ? お前の大嫌いな隠し事を」 「それはきっと何か理由があるのっ」  思わず声を荒げると、その女は可笑しそうに目を細めた。この人たちは一体何者なの。篠はどこに行ったの。不安が胸を締め付ける。 「そうだな。あいつには、お前に隠し事をする理由がある」 「…貴女は知っているの?」  狐の女を見据えながら発した声は、自分でも驚くほど冷たかった。 「もちろんさ。私だけでなく、この神社の狐は皆知っているだろうな」  左右に広げられ、着物の袖から白く細い腕が覗いた。あまりに白く、気味が悪い。 「あれは忘れもしない、十年前のこと…。  あの日は、白狐様とその許嫁様の嫁入りの日だった。そんな大切な日に迷い込んだのが、お前とあいつ。ただ迷い込んだのならまだしも、許嫁の狐が依代にしていた置物を壊してしまった。  許嫁様は、依代が壊れた反動でお前に宿ったから、許嫁様が人間に宿った、と大騒ぎだ。  そもそも白狐様とは、人に幸せをもたらす狐たちの中で最も尊い狐で、つまり私たちにとっての神。その白狐様の許嫁様もまたとても尊い狐で、そう簡単に代理を見つけることはできない。だから仕方なく、お前を嫁に行かせようという話になったんだよ」 「あいつは、責任を感じているんだろ。だから適当なこと言って謝ったことにしてるんじゃないの」  狐はそう言って一息ついた。 「……篠は貴女たちとは違う」 「まあ人間と狐だからね、全く違うな。でもお前とあいつも違うだろ」 「でも、篠は嘘つかない……」  どうして狐たちに篠のことを言われないといけないんだろう。篠のことを一番分かっていたいのは私なのに。 「お前は大人しくお嫁に行けばいいんだよ。あいつにも迷惑かけたくないんだろ?」  返事は何も出来ず、視界が明るくなった。  目の前で私を覗く篠がいた。 「美紅、大丈夫……?」  心配そうなその顔を見て、勝手に口が回った。 「…私は、嘘をつかれて、気を遣われるくらい可哀想……?」 「え?」  言おうなんて思っていないのに、自然と口がそう言っていて。頭の中で小さく思っていたことが、大きく膨らんでいく。 「どうなってるのか何にも分かんないのに……。篠にまで嘘つかれるなんて、もうやだ…」 「…違うよ、美紅。俺は、言いたくなかったんだよ」  浅くなっていく呼吸を繰り返しているその隙に、篠は言った。怒っているわけでも、面倒くさがっているわけでもなく、ただ宥めようとする声だった。 「…俺、恋愛的に美紅のことが好きだからさ。狐に嫁入りとか、勝ち目ないだろ。だから言いたくなかったんだよ」  きっと今じゃなければ、単純に恥ずかしくなっていた。でも、頭の中に自分じゃない考え方が住み着いて、そんな可愛い反応ができない。 「好きな子が、他の男のとこに行くなんて嫌だったから。せめてほんとの美紅には、秘密にしておきたくて」 「うるさいうるさいっ…そんな嘘いらないっ」  眉を下げて困ったように笑う篠が、ひどく気に障った。 「……ごめんね、俺の勝手な感情で。美紅が隠し事を嫌うことは知ってたのに」  優しくて、私のことばかり考えているその言葉。篠のお荷物になりたいとは思っていないのに。 「…もういいっそんなに迷惑ならっ」  迷惑ならっ、と繰り返すと、情けない程に声が震えた。震えた息を飲み込んで、真っ直ぐ篠を見つめた。不思議と、心は静かだった。 「……私、お嫁に行くよ」 「え、…」  初めて篠が動揺した。私の本心だったから、目を背けることもない。 「…お嫁に行くから、篠はもう邪魔しないで」 「ま、待って。美紅、どうしたの急に」 「…篠にはもう関係ない。早く家に帰って」  何だか今日はいつもより、嘘をつくのが上手だな。私じゃないみたい。ああそうだ。これは私じゃない。私に取り憑いた狐だ。  なんて言い訳しても、私に嘘はつけないのだけど。 「ほら、篠の家はここじゃないんだから」 「美紅の家も、ここじゃないでしょ……?」  見開かれた篠の目は、光を反射して輝いている。その光が眩しくて、わざと瞬きをしていた。 「私の家はここ。そんなこと良いから早く帰ってくれる? 狐たちが怒ってるから」  私は後ろに視線を投げた。私の足元に何匹も狐が目を赤く光らせている。邪魔者の篠を追い出そうとしているかのように。 「…ごめん」  小さくつぶやいて、篠は私に背を向けて歩いて行った。その背中が曲がり角を曲がって見えなくなると、頬につうと、何かが流れた。 「……いかないで…」  それはもう届くはずもなく、ただ虚しく響いた。立っている気力もなく、芝生の上に座り込んだ。 「ねぇ、本当に全部嘘なの…。篠は、私に責任を感じてるから一緒にいるの?」  足元の狐になのか、誰に向けたのかも分からなかった。そっと、一匹の狐が答えた。 「…全部が嘘かは知らないけど、お前のためになら優しい嘘もつくし、隠し事もするだろ」  狐の言う事が道理で、視界が歪む。  そうだ。篠は自分のためだけに私に隠し事はしない。きっと嫁入りのことを聞いたら、私が混乱すると思って黙っていたのだ。  ぼんやりと幕が降りた世界で、その優しい声を聞いた。 「泣かないで下さい、美紅」  頭に、ふわりと温かい手が乗った。それは、私の呼吸に合わせてゆっくりと動く。 「篠は、誰よりも美紅を想っています。嘘ではありませんよ、私が保証します」  それは、とても温かくて、情けないけど、嗚咽が零れた。  顔を上げると、白い着物でしゃがみ込む、赤い瞳の美青年がそこにいた。間違いなく、白狐様だ。  白狐様、と狐たちから慕われる彼に言われると、ひどく安心した。どうしてこんなにほっとするのか、自分でも分からなかった。  私の顔を見た白狐様は、にこりと微笑んで、私の隣に腰掛けた。  白狐様を初めて見た時、心が躍って、お嫁に行くというのは、少し嬉しかったのに。篠の言葉が嘘だと思うと、とても苦しかった。 「…何でかなぁ。篠が嘘ついてるのはすごく嫌だけど、白狐様を取られるのも嫌なの」  ほっとして、ぽろりとそんな言葉が零れた。  大切な幼馴染と、出会ったばかりの狐の神様。篠と一緒に生きてきた時間は何に変えられるものではないのに、白狐様を見つめたあの一瞬も、忘れる事ができない。一目惚れとは、こう言うことを言うのだろうか。 「貴女も、篠のことを想っているのです。私は……人間とは違いますから、美紅には刺激が強いですし、心が勘違いをしてしまったのかもしれませんね」  どこか寂しそうに微笑む彼は、普通の人間と何が違うのか、私には分からなかった。 「…勘違い」 「ええ。それに、美紅に宿った私の許嫁は、私のことを慕っていてくれましたから」  白狐様の言葉に、私は少し首を傾げた。この想いは、勘違いでも、誰か他人に左右されたものでもないとはっきり思ったから。  私を慰める時に篠のことを話す彼の優しさと、私を包み込むこの声を、私はもっと、ずっと、聞いていたいと思う。それは、篠と一緒にいたいと思う気持ちと同じだった。 「…勘違いでも、許嫁様のせいでもないよ。多分、私は貴方が好き」  私は篠が好きで、白狐様のことも想っていて。欲張りな自分が嫌になる。 「好意を持って頂けるのは、大変嬉しいです。でも」  まるで篠のように、困ったように笑う。白い前髪で、瞳が隠れた。 「でも、篠のことも好き」 「……ええ」  顔が熱くなっているのを感じながら、隠れた彼の瞳と目線を合わせた。 「でも、私は貴方のお嫁に行きます。篠にはきっと、私はいらない」 「美紅、良いのですか? あのまま篠と離れても」 「…私は、貴方を選びます」  今、篠の顔を見たら、声を聞いたら、きっとこの決意が壊れてしまう。あんなに大好きな篠と離れなければいけないのは、嫌だった。  でも、篠が今日まで狐たちへの思いを背負ってきたのなら、これからはもっと気楽に生きてほしい。だから、私の感情などいらない。 「美紅も、篠も。優しすぎますよ」  それを最後に、私の意識は途絶えた。また、眠りについたかのように体は動かなくなって、暗いどこかで、ひとりぼっち。   *  美紅を一人、置いてきたことに後悔した。  帰って、と静かに言った美紅は、どんな思いだったのだろう。気になって、夜も眠れなそうだった。  俺は回れ右をして、来た道を戻る。まだ賑やかな街の音が聞こえる前だから、そこまでの距離でもない。  角を曲がって、美紅がいたはずの場所と同じ道に出た。そこには、白い着物姿の青年と二人並んで座って、青年に寄りかかる美紅の姿があった。二人の距離感がとても近くて、思わず唇を噛む。  見られていることに気が付いたのか、青年がこちらを向いた。それは紛れもなく白狐様で、いつの間にそんなに仲良くなったのだろう。 「……あ、ごめんなさい。狐の子と意識が混ざって、朦朧としているみたいで」  やましいことは何も、と付け足した彼に俺は肩をすくめた。 「…別に気にしませんよ、美紅は貴方のお嫁ですし」  美紅が決めたそう決めただけであって、俺は認めたくはないのだけれど。 「良いんですか? このまま美紅と別れても」 「美紅はもう俺に会いたくないみたいですから。美紅は貴方を選んだんでしょ」  目線を落として、少しだけ苦しそうに目を閉じている美紅を見つめた。この人の隣で眠れるのなら、これからも何の問題もないだろう。 「……私、神社に少し戻らなければいけないんです。この状態の美紅を一人にしたくないですから、見ていてもらえますか?」 「え、良いんですか」 「もちろん。寝起きなら、美紅も夢だと思って本当の気持ちを話すと思いますからね」  俺が美紅を支えたのを見ると、彼は嬉しそうに立ち去った。いたずらっ子のような微笑み方は、人間味に溢れている。 「何で、言っちゃたんだろうな…」  肩に美紅の温もりを感じながら、呟いた。  好きだという想いを伝えなければ、こんな苦しい思いはしなかったかもしれない。後悔しても遅いのに、そんなことを考えてしまう。どうせ俺は、伝えていなくても、何も言わないままで美紅を行かせなんてことは出来なかっただろうけど。  きっと美紅は彼の元に行ってしまう。ほんの少しでも、俺の想いが邪魔をすれば良いのに。  所詮人間なんかそんなもんだ。今更、呼吸が止まるほど美しくなんてなれないし、仙人のように無欲になれるわけじゃない。  神様に勝てるわけがない。と、心の中で自分を慰めた。そんなことをしていないと、心がもたなかった。  次第に空が暗くなっても、美紅は目を覚さなかった。心なしか、彼といた時よりも、表情は穏やかだ。 「ん………」  耳元で美紅の声が聞こえて、首元に鳥肌が立った。この距離で、美紅の声を聞くのは、どうにも耐え難い。 「…美紅、おはよ」  眠そうに目を擦る仕草は、狐のものじゃない。俺はほっとして、声を掛けた。 「篠………っなんで。帰ったんじゃ…」  目を見開く美紅が可笑しくて、思っていたよりも、言葉は自然と言えた。 「俺は、美紅のことが大好きだよ。嘘でも何でもない」 「え……?」  顎を少し上げた。美紅に見せる横顔は、涙を隠すみたいに俯かずに、笑っていたいから。 「…嘘じゃないって証明する方法は知らないけど、でも、好きじゃない人と十年間も一緒にいないよ。大切な人にだから、自分の時間を使えるんだ」  美紅じゃなかったら、俺は途中で投げ出していた。それだけ、美紅という存在は俺の中で大きかった。 「私、は……」  視線がぐるぐると回っているのは、俺をどうやって突き放すか考えているのだろうか。美紅に突き放されるのはもうごめんだ。 「良いんだよ」  寂しい声に聞こえないように、口角を上げて、少しだけ、視線を下げた。 「美紅が選んだなら、白狐様のお嫁に行っておいで」  隣で美紅の息を飲む音がした。膝を抱えて、俯いている。 「美紅が幸せなら、俺も幸せだし。美紅の選択に、俺のわがままを挟みたくない」 「私っ…」  美紅の声が弾んだ。 「……私も、篠が大好き」  初めて、美紅の好きと言う言葉が俺に向けられて、目元が緩む。涙が零れないように、強く目を瞑った。 「でもね、白狐様も好き、なの。変かもしれないけど、最低かもしれないけど、やっぱり二人とも大好き」  ああそっか。やっぱり俺は神には勝てないか。でも、同じ土俵には立てたんだから、少しくらい誇っても良いかな。 「あのね、私。篠が好きって言ってくれて、すっごく嬉しい」 「……うん」  美紅を見ると、涙を浮かべていた。きっと、俺も美紅にそう見えているのだろう。美紅は涙を零さずに作った顔で笑った。 「だから、私は白狐様のお嫁に行くね」 「…うん」  互いの思いで、それぞれの道の可能性を壊さないように。だから、美紅は狐に嫁入るんだろ。  このまま一緒にいたら、きっと甘えすぎてしまうから。だから、違う世界でも、二人で一緒に頑張ろうって、そういうことだろ。 「篠のことを好きって想いは、きっと恋。白狐様への想いは、いつか……恋を超える。理由はないんだけど、そう思うんだよ」  笑ったまま、美紅は泣いた。嬉しいのか、寂しいのか分からないけど、多分その涙を俺は見てはいけない。  触れ合った肩と、触れ合った髪と、反対側の手を伸ばし、美紅の頭にそっと触れた。それは少し冷たくて、ひたすらに儚い。  美紅に触れて、俺の喉はきつく締まった。声を出さないのが精一杯で、俺は美紅から顔を背ける。   *  晴れた空から雨が降る。草木を濡らし、水滴が輝く。  鳥居の前で、俺と美紅は並んでいた。隣で静かに佇む美紅は、白い嫁入り衣裳を身に纏っている。狐たちによって飾られた美紅は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。何気なく結われた黒髪も、細くなぞられた紅い唇も、和傘に添える華奢な指も。  何一つ、忘れて良いものではなかった。 「…篠、傘ささないの?」 「うん。雨は、好きだから」  君が幸せになる今日、降る雨なら好きになれそうだ。 「ふーん」  不自然に交わす自然な会話。雨が草木を叩く音が、微かに聞こえる。狐たちの姿は見えないが、きっと神社の奥の、奥に、行儀良く並んでいる。 「……もう、行かなきゃいけないから」 「…………」  漆で塗られた下駄が、地面をコツコツと鳴らす。心臓が激しくなって、少し苦しい。  ぐっと込み上げた切なさを堪えきれず、和傘の枝を強く引いた。 「っ……」  体勢を崩した美紅を、腕で抱きとめて、その温もりを記憶に焼き付けるように、静かに、強く感じた。 「…………いってらっしゃい、美紅」  もうこの名前を呼ぶこともない。何よりも大切に、美紅の耳元で囁いた。あの日、俺が感じた耐え難さを、伝えるように。 「いってきます、篠」  ゆっくりと、腕を解いて、美紅が離れた。髪を靡かせ、美紅が和傘に隠れた。 「幸せにね…」  何よりも素直に、心からそう思えた。小さな俺の声が届いたのか、美紅はもう一度こちらを振り返って、 「うんっ」  と、溢れんばかりの笑顔で言った。
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