木乃伊になった人魚姫

1/1
前へ
/1ページ
次へ
ガタゴトと馬車の揺れが伝わってくる。この辺りは道が悪いのか、先ほどまで微睡んでいた意識は急速に浮上する。窓の外からは月光を受けてキラキラと光を四方に散らせる海が見えた。目指す目的地が近いのだと悟ると、少女は表情を曇らせ重く息を吐いた。 少女の家は貧しかった。両親と姉が一人。今までは姉が奉公に出ていたが、家に戻り婚姻を結ぶことになり、その費用がさらに必要になったため、今度は少女が奉公に出ることになった。 馬車は海辺の大きく古めかしい館の前で止まった。馬車を降りると入口の大きな扉から険しい顔をした老婦人が出てきた。婦人は少女を一瞥するやいなや、顔をさらにしかめた。 「奉公に来る娘とはあなたですね。話は通してあります。付いてきなさい」 そういうと婦人は踵を返し、もう少女には目もくれず扉をくぐっていってしまった。少女は慌てて御者に頭を下げ、急いで婦人の後を追って館へと入っていった。 館内は調度品や壁からとても古いことは感じられるがもはや歴史があると言うよりは、古びていると言った方が相応しい。没落した貴族の館だと聞いていたがその通りのようだった。少女の前を行く婦人からは、まったくなんてこと、聞いていたよりもみすぼらしい、穀潰しが増えるだけ、なんて言葉がボソボソと聞こえた。胸に抱えた小さな荷物をさらにぎゅっと抱え込み、耳を塞ぎたいのを堪え少女はただ足を動かした。 長い廊下の奥のさらに奥、大きく頑丈な扉の前で婦人は足を止めた。 「あなたにはここにいらっしゃる方のお世話をしていただきます。失礼のないように励みなさい。それと、旦那様にはあなたのことを伝えてありますから、わざわざあなたから出向くことのないように。部屋はここの隣ですからね」 それだけ言うと、婦人はくるりと方向を変え長い廊下を歩いていってしまった。 重苦しい圧を感じる扉の前に取り残された少女はしばらく呆けて婦人が去っていった方を眺めていたが、思い出したかのように扉に向き直り緩慢な動作で、扉をノックしてみたが、何も返っては来ない。無作法かとは思いつつも、そのまま扉をぎぎぎと押し開けた。 その部屋は微かな星明かりが届くほどのカーテンは開いているようだったが、今はちょうど月が隠れているのか薄暗く、目を凝らしても具体的な物はなにも捉えることはできない。まして、この部屋の主なんて本当にいるのかもわからない。ひとまず真っ直ぐ部屋の中央へと歩き出してみたところ、唐突にコツンと何かに正面から頭をぶつけた。目の前に手を突き出してみればペタペタと触れることができ、まるで壁か、もしくはガラス。目の前の壁について考えを巡らせていると、またしても突然に視界が開けた。月の光が雲を裂き、少女の眼前を仄かにしかし眩く照らした。 最初は大きな尾だった。ゆらゆらと光を受け透き通る尾。そのまま視線を上に動かせば少女を見下ろす目とかち合った。人魚だ、と思った。上半身は人間、下半身には魚のような尾、水中で揺蕩う長い髪を持つそれは紛うことなき人魚で。しかし、少女が御伽噺で知っている人魚と明らかに違うのはそれが男性に見えたことだった。豊満な胸ではなく、筋肉質な胸板。曲線を帯びた華奢な輪郭ではなく直線的で彫りの深い顔立ち。なんとなくの違和感を抱えながらもポカンと見惚れていると、人魚はふい、とそっぽを向き、さらに雲が再び月に覆い被さってしまった。結局のところ少女がぶつかったのは水槽だったのだ。とてつもなく大きく、中には人魚以外生き物がいない、薄汚れた空っぽの水槽。またしても暗闇を取り戻した部屋で少女はそれまで張っていた糸が切れたかのように、床にへたりこみ水槽の前で丸くなり眠ってしまった。 翌朝、少女は隣の部屋の扉をノックする音で目が覚めた。 「とっくに仕事の時間ですよ。いい加減にしなさい」 おそらく婦人の声であろうか。ひどく刺々しい。胸の奥がひやりとする。急いで立ち上がり廊下へと駆け出した。思わず振り向きざまに見た人魚はこちらを見てはいなかった。 婦人にこっぴどく叱られ館内を連れ回され、ようやく解放された時にはすでに夕方になっていた。這々の体で少女が戻ってきたのは人魚がいる部屋だった。ノックはするだけ無駄かと思い、昨夜と同じくそのまま扉を開ける。当然の如く人魚はそこにいて、やはり少女の方ではなく明後日の方向へ目を向けゆらゆらと尾を揺らしていた。水槽は部屋の中央に備え付けられ、長方形の形をしていた。水温を管理する装置なのかなんなのかはわからないが、いかめしい機械がくっついている。そしてガラスの外側は埃に覆われ、昨夜少女が触れた場所がくっきりと跡になっている。内側もあまり綺麗だとは言い難い。人魚の食料なのだろうか、上から撒かれたであろうものが水を汚している。これでは居心地が良いとは言えないだろう。当の人魚といえばすました顔で窓を眺めている。黄昏時の柔らかい光が人魚の髪を染め上げた。 「こんばんは」 試しに少女が声をかけても何も反応はない。聞こえていないのか、無視をしてるのか、理解ができないのか。とにかく明日はこの水槽をどうにかしようと決意し、今夜も少女は水槽のそばで丸くなった。 今朝はしっかりと目覚め、婦人に人魚の部屋の掃除をする旨を伝えた。初めからそれが少女の仕事だったのだから。婦人は頷くとそれ以上話しかけるなと言わんばかりに鼻を鳴らし彼女の仕事へと戻っていった。人魚の部屋へと戻る途中には中庭があり、よく手入れのされた花々が品良く並んでいる。それらを横目に通り過ぎようとしたとき、少女に声をかけてくる者がいた。 「おはよう、新顔のお嬢ちゃん。元気かい?」 声の主は中老の男性だった。柔らかい笑みを少女に向け、コツコツと杖の音を響かせながらこちらへ歩み寄ってきた。 「あの婦人はな、若い娘が嫌いなんだ。あまり気になさらんようにな。私は庭師でな、いつもここにいる」 この館に来て初めて笑いかけてくれる人物に出会えたことが嬉しくて、泣きそうになりながら少女も応えた。 「おはようございます、おじさま。おじさまのおかげで元気になりました」 庭師は優しく目を細め、花々に目を向けながら口を開いた。 「お前さん、婦人にあの人魚を押し付けられたのだろう…あれはな、もう何代も前のここの当主が当時のオークションで落札した者でな。最初こそ熱心に世話をしていたそうだが、そのうちに飽きてしまいあの部屋に追いやられてしまったそうだ。人魚なんてとても希少ではあるが、皆不気味がって近づこうとしなくてな。お嬢ちゃんがここにくる前までは婦人が世話をしていたんだが…どうだか…」 顔を曇らせる庭師を見て、あの水槽の劣悪さを思い出す。あれでは世話をしていたうちには入らないだろう。 「おじさま、水槽は澱んで埃が覆っていました。あのままでは人魚は死んでしまうかもしれません。私はどうしたら良いのでしょう」 切なげに声を上げる少女を見下ろす老人は、一瞬だが悲哀とも恐怖とも取れる表情を見せた。それに少女が違和感を感じる間も無く、庭師は口を開く。 「あやつはな、死なないのだよ。人魚は不老不死と言うだろう」 庭師と別れ水槽の部屋に戻った少女はまず、庭師に言われた通り機械をいじり始めた。カチカチとダイヤルやスイッチを入れていくと、ゴゴゴと鈍く音がして機械が作動し始めた。これで水槽内の水を循環させ、水質を綺麗に保ってくれるらしい。次にゴミを掬いだし、ガラスの外側を磨いていく。徐々に透明度を増していく水槽をホッとしたように見ていると、人魚がこちらを伺っていることに気づいた。目が合うとまたふいと、無表情でそらされてしまう。少し熱くなってしまった頬を両手で抑えながら、次はどうしようかと逡巡する。水も循環させて綺麗になったとはいえ、水槽の内側も掃除しておきたい。そのためには人魚を移動させたいところではある。しかしどうやって。ある程度の方法ならば庭師から助言をもらっている。問題はどうやって人魚に伝えるかだ。ひとまず道具を揃えようと、少女は台車とその上に少女が入りそうなほどの大きさの水槽、柄の長いブラシ、そしてバケツを用意した。まずは機械の脇についている階段から水槽の上口へと登りバケツで水を掬い、下にある水槽へと移していく。ある程度貯まったら、意を決して人魚へと呼びかける。 「エリーゼ様、どうかお応えくださいませんか」 この人魚には名前があった。それもあの老人から聞いたものであったが。名前を呼ぶ効果はあったようで、水面から首までをだし、少女の方を無表情ではあるが首を傾げて眺めている。 「この水槽を磨かせて欲しいのです。一時の間、別の場所でお待ちいただけないでしょうか」 少女が用意したもう一つの水槽を眺め、了承したのかは定かではないがゆっくりと縁にいる少女へと近づいてきた。 「私がお運びします。お体に触れることをお許しください」 人魚へと少女は手を伸ばし、人魚も少女へと手を伸ばした。構えていたよりはとても軽く、引き上げることは少女でもそこまで難しい事ではなかった。さすがに尾までは抱えきれずズルズルと引きずる形にはなってしまった。密着した剥き出しの上半身から自分のものではない体温を感じてくらくらしてしまう。人魚の濡れた髪が頬に当たって火照った顔に心地よい。やっとの事でもう一つの水槽に辿り着いた。やはり人魚を入れると尾の大半が縁から出てしまう。早くしなければと思い、少女はブラシを掴んだ。少女が水槽を磨いてる間もただただ、人魚は虚ろにどこかを眺めるだけだった。 ようやく磨き終わり、水も貯め直し、人魚を戻そうと振り返ると、縁から腕を出し気怠そうにこちらを見つめる双眸と目が合う。目があっても今度はそらされることはなくひたすら見つめられる。人魚は少女が出会ったものの中で最も美しいと感じたものだった。顔に熱が集まるのを感じ、たじろぎながらも人魚を運ぼうと近づく。すると今度は人魚の方から少女へと手を伸ばしてきた。相変わらずの無表情ではあるが、それだけでも少女は嬉しかった。再び感じる体温にはふはふと、呼吸が乱れる。人魚の方からも少女に掴まっているので、お互いに抱きついてるようになる。そのことに気づかないフリをして、少女は注意深く足を動かした。もう死んでしまうかもしれないと、思いながらも再び人魚を水槽に戻すことができた。前よりも伸びやかに泳ぐ人魚を見て知らず知らずのうちに頬が緩む。気づけばもう日暮れだった。カーテンを閉めようと手を伸ばすが、ふと思いとどまりそのままに少女は部屋を出た。 翌日も、その翌日も、少女は水槽の前で丸くなり、目が覚めるとただただ人魚の世話をした。人魚は死なない、水が澱んでいても、何も口にしなくても。庭師はそう言っていた。だからと言ってそのままにするわけにはいかないだろう。そう思いながら今日も少女はガラスを磨いていた。夢中で磨いていたがふと影が落ちていることに気づいた。視線を手元からずらすと人魚が内側からガラスに手をついてこちらを覗き込んでいた。予期せぬ事に驚き固まっていると人魚は軽く目を細め、そしてまたそっぽを向いてしまった。我に返り、さぞ間抜けな顔をしていただろうと人魚の尾を目で追いながら縮こまる。人魚は相変わらず窓を眺めている。ふと思い立って少女は人魚に声をかけた。 「エリーゼ様、海へ行きたいのですか」 肩越しにこちらを見た瞳はやはり何も読み取れなくて、しかし毎日人魚のすることといえばゆらゆらと尾を揺らしながら窓を眺めることだけ。自分で勝手に手元に置いておいて、飽きたならば追いやるのではなく手放せばいいものを、そうフツフツと怒りの感情が少女に沸き上がる。婦人は劣悪な環境に人魚を長いこと置いていた。庭師にしたってそうだ、それを知っていながら何もしなかった。皆、ひどい人ばかりだ。 「貴方様はここの人たちを恨んでいますか」 そう問いかけると、流し目にこちらを見やり、またふいと窓へと視線を戻した。しかしたしかに一瞬だが見えたのだ。憎悪、憤怒、怨嗟、そんな負の感情。虚無しか映さなかった人魚の目に初めて見えた色だった。それを見て、少女は人魚を海へ返そうと決めたのだった。 その日の深夜、少女は館の中を静かに歩いていた。本当ならばすでに消灯時間。出歩きなどすれば婦人の怒りを買うことは目に見えていた。しかし今夜は素直に寝るわけにはいかなかった。一際大きく重厚な扉の前に立ち、鍵がかかっていないことを確認する。基本的にこの館の人々は不用心なのだ。寝室へと滑り込み、少女は迷いなく引き金を引いた。パァンッと音が響く。しかし誰も起きては来ない。食事の際に薬を盛ったというのもあるが、この人物で最後だからだ。あの冷たい婦人も、知らないフリをした庭師も、全員寝ているところを撃った。その銃は奉公に出る前に婚姻する姉からもらったものだった。長い間大事に手入れをしてきた綺麗な髪を切って売り払ったお金で少女にくれたものだった。いざという時は、これで身を守りなさいと。弾が切れ用済みになった銃をその場に捨て、少女は人魚の部屋へと向かった。人魚はやはり窓の外を見ている。 「エリーゼ様、海へ参りましょう。お運びしますのでこちらへいらしてください」 台車に人魚の入った水槽を乗せ、少女は館を出た。館は海に面しているため、1分と経たず海へと着く。そのまま少女の胸のあたりが浸かるまで台車を進める。 「エリーゼ様、どうぞ海へお帰りください。大丈夫、あなたの代わりに屋敷の者は全て殺しました。あなたがこの地で未練に思うことは何もありません」 水槽からするりを海へと滑りでた人魚は少女へと近づき、指でゆっくりと頬を撫で輪郭をなぞり、そしてほんの僅かに微笑んだ。そのままぎゅっと体を密着させるように強く抱きしめた。少女は顔が真っ赤なことを感じながらも、体温をさらに感じようと人魚に腕を回した。そして人魚はゆっくりと口を開いて、少女の首に食らいついた。 少女が声を上げる前に喉を潰し、骨を砕きちぎり、血肉を飲みくだし、少女が絶命したと分かると、首のない体をもう一度ぎゅうっと強く抱きしめた。人魚は血を滴らせながらメキメキと耳まで裂けた口を大きく歪め、 「貴様ら人間が、我々の種族にした罪は今更何をしようが決して消えない、もう何十年と口を開かなかったおかげで我はもう歌えぬ、今頃海へと戻ったところで仲間に合わせる顔などない」 その声はひどくしゃがれて掠れて、乾ききっていた。 「だが最後に一人だが人間を殺せた、報復ができた。意味などなくても遅くても、それだけで溜飲が下がる。娘よ、貴様には礼をせねばな、これほどまでに晴々とした気分は初めてだ。小魚に食わせる前に、我が貴様を喰らってやろう」 そう言うと人魚は首のない体を抱えたまま、月明かりも届かぬ暗い海の底へと泳いでいったのだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加