pallet

4/7
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 周囲に高い建物が少ないせいか、新居から見上げる空は、ずいぶんと開けている。出勤する透を見送ると、佳恵は庭に出て大きく伸びをした。山間部なだけはあり、真夏の八月でも朝晩だけは澄んだ空気を味わえる。 (結婚して、もうすぐ一ヶ月……)  突貫工事のような日々だった。  お互いの仕事がちょうど繁忙期であり、寿退社となった佳恵は引き継ぎのため、より多忙を極めた。新郎新婦の意向で式は挙げず、身近な親族の顔合わせを兼ねた食事会という形で事を収めた。 「なんだか、狐につままれた気分だわ」真顔で呟いた母の感想が正鵠を射ている。一応は安堵した様子のお互いの両親を見て、ほっと肩の荷が下りた。透はいつもの笑ったような顔で隣に座っていた。 (縁は異なもの味なもの……とは、いうけれど……)  私たち夫婦は、どんな色味なのだろう?  伸びをしたまま考えてみるが、すぐには答えが浮かばない。年齢が若く、大恋愛の末の結婚であれば、即答で「So sweet!」だろう。色で例えるなら、もちろんピンク。派手派手しくて嘘っぽい、でも、最高に幸せそうなショッキングピンク。 (私たちは……)  まっさら。  唯一、浮かんだ単語に苦笑する。まっさら、か。 (夫婦の共同作業って、要するに『生活』だよね……)  単語すらも無味乾燥な響きを持つ、「生活」を二人で彩る作業。婚姻後、新たな門出を切った二人が向かうのは無のキャンバス。それぞれが手にするのは新品のパレット……ではない。  幾重にも絵具が塗りたくられた自身の軌跡(パレット)から色を選び、二人で新たな作品を生み出していく。  無論、ひどい仕上がりである。  何色もが交じり合ったパレット上の絵具は、グロテスクで無様な作品しか描けない。美しく、欠点のない絵など、描けるはずもない。  完璧な夫婦など、この世に存在しない。  完璧な人間など、この世にいないのだから。  いびつなままを受け入れて、気づかぬふりをして、完璧を装う。  無数の色をぶつけ合い、そのまま損壊する夫婦もいる。塗り固められた絵具が強固な土台となり、死ぬまで連れそう夫婦もいる。上辺の色だけで、一見すれば美しい絵画を完成させる夫婦もいるだろう。いずれも、生まれた絵画はこの世にただ一つだ。 (私たちが描く絵は……)  ゆっくりと腕を下ろし、脳裏に浮かんだ巨大なキャンバスに対峙する。  透と二人、絶対的な白に向かう佳恵は途方に暮れてしまう。奇妙な縁で結ばれた夫と横並びで立ちながら、無の白色が放つ圧に屈する寸前だ。  夫婦のどちらもが筆を振るうことができずに黙考するしかない……そんな夫婦は、世界広しといえども稀だろう。 「うーん」  私たちらしい……佳恵が虚しく実感したのと、透が唸ったのは同時である。顔を向けると、彼は筆を放り投げ、なぜか手にしていた傘を突然に開いた。白一色の世界を葬る強烈な緑色に、何度も瞬きを繰り返す。 「まっさらなんて、じつに僕たちらしい。それも、一つの形だよ」  朗らかに述べて傘を差し出す彼の笑顔は、現実よりも楽しそうだった。  まっさらさら。  呪文のように唱えると、他愛ない空想は青空へと立ち昇って消え去った。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!