pallet

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 彼との出会いは、ぐずぐずと長引く梅雨も終わりの頃だった。  厳かな庭園で熱心に紫陽花(あじさい)を見つめる姿は、無垢で聞きわけのない子供を思わせた。佳恵(かえ)の視線に気づいたのか、地べたに屈んだまま振り向いた彼は笑ったような顔で、曇天の下、肌の白さが際立っていた。 「知ってます? 糊空木(ノリウツギ)の花弁だと思われている部分は、じつは(がく)なんですよ」  屈託のない笑顔も、涼やかな瞳も、見惚れるに値する綺麗なものだが、佳恵の表情は硬いままだった。 「……ノリウツギ? 紫陽花ではないの?」 「アジサイ科の落葉低木です。紫陽花が終わる今頃に咲き始めて、次第に色が変わるんです。いまは緑が強いですけど、段々とキャベツみたいな淡い色になって……」  嬉々として語る男に眉間の皺が深くなる。  無理もない。  二人は初対面である。それに、ここは県下随一の格式高いホテルの庭だ。三つ揃えの高級そうなスーツに身を包んだ大の男が、汚れも気にせずに花を観察する場所ではない。 (私も人のことは言えないか……)  今日のために新調したツーピースに、パタパタと雨粒が跳ねている。歩くたびに痛む窮屈なパンプスも、すでに泥まみれだ。  無意味と知りつつ、天に手をかざした。 (傘を持って逃げればよかった……)  不穏な雨雲が厚く立ちこめた空を見上げ、力なく笑いが漏れる。私らしい。じつに私らしい。  人生初の見合いが、見事なまでの悪天候だなんて。 「やあ、雨が強くなってきたな」  能天気な声にもたげていた首を戻すと、怪しい男は立ち上がり、手にしていた傘を開い た。 「どうぞ。女性が雨に打たれる姿は忍びない」 「……いえ、結構です」  後退りしながら答えた佳恵の瞳は、彼がくるくると回す傘に釘づけだ。目の覚めるような緑青(ろくしょう)色は、メロンソーダを彷彿とさせる。強靭で迷いのない、顔を背けたくなるほどの緑色だ。 「それにしても、今日は最悪の天気ですね。僕らしいなあ」 「……はい?」  拒否したにも関わらず、男はずんずんと近づき傘を差し出した。雨をも忘れてしまいそうな鮮やかな緑色の下で、見も知らぬ男からは柑橘の清雅な香りが漂った。 「今日、僕はここで見合いの予定だったんです。親が勝手に決めて、騙された挙句に連れてこられて……我慢できずに逃げ出してきましたよ。この雨の中、庭に潜んでいるなんて、きっと思いもしないでしょう。相手の方も呆れて帰るにちがいない」  頭一つ分ほど上から注がれる快活な笑い声に、返す言葉もない。脳天から垂れ落ちた雨の雫が冷や汗のように頬を伝っていく。 「ああ、いた!!」 「佳恵!! あんたって子は!!」  徐々に近づく騒がしい声も、どこか遠くに聞こえる。目の前に立つ男がなにかを察して息を呑むのがわかった。虚ろに逸らした佳恵の瞳に、一面に咲き誇る糊空木が映りこむ。雨空にも溌溂と咲き誇る黄緑色の群生は、くすくすと笑っているようだった。
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