傭兵とお嬢様

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傭兵とお嬢様

 空色の瞳が見えた。よく晴れた日の澄んだ青を思わせる、吸い込まれそうなほど美しい瞳。奥に深い色も見えて、宝石のような美しさをじっと眺めていた。  その美しい瞳に見つめられている――そう自覚すると、ぼんやりしていた頭が、だんだんと覚醒してきた。  ここはどこか。何をしているのか。自分は一体誰なのか。頭の中はぐちゃぐちゃに混ぜられていて、正しく情報が引き出せない。  はっきりとわかるのは、美しい瞳が目の前にあるということ。 「起きたか?」  男性の低い声。頭を撫でられる感覚がして、目を大きく開いた。ガバッ――勢いよく体を起こした。が、全身に激痛が走り、呻いて、伏せる。 「おいおい、動くなよ。大ケガしてんだから、おとなしくしてな」  降ってくる声は穏やかで、頭を撫でる手も大きくて優しい。心地よささえ感じる。けれど、今、この状況は。一体どういうことだ。知らない男性に頭を撫でられている。しかも、おそらく膝の上だ。  混乱する中、ふと、自分の手を見た。伏せた頭のすぐ横。しかし、これは。真っ黒い毛に覆われた小さな手――犬、の手に見える。いや、脚……と言うべきか。手を動かすと、犬の脚も同じように動いた。 「~~ッ、キャウンッ!」  言葉を出したつもりだった。けれど、それは自分の知る形ではなく。犬の鳴き声が響き渡っただけ。慌てて自分の体を見る。赤く滲んだ包帯が巻かれた、黒い毛に覆われた体。ふっくらした肉球にふさっとした尻尾。自分の顔は見れないが、これは、もう―― 「なんだ、痛むのか?」  声の主を見る。空色の美しい瞳を持つ、顔立ちが整った十代後半くらいの青年だった。 「お前、死にかけてた……というか、ほぼ死んでたんだぞ。この切り傷は剣だろうし、矢も受けてる……ブラックドッグは珍しいから、狙われたのかもな……」  剣、矢、ブラックドッグ――聞き慣れない言葉が続いて、思考が止まる。いや、剣も矢も知ってはいるが、普段の日常生活で聞く言葉ではない。それに、ブラックドッグとは……黒……、犬――?  黒い毛に覆われた体を見る。 (わたし、犬だったっけ?)  ――いや、違う。人間だ。犬じゃない。  そう思っても、どこか自信がなかった。記憶がごちゃごちゃしているせいだろうか。  息を吐き、ゆっくりと考える。自分は誰なのか――思い出したのは、両親の顔だった。人間の、母と父。そして、優しく名前を呼んでくれた声。  りい――そうだ、わたしの名前は莉衣。  両親が名付けてくれた、大切な名前。一緒に過ごし、笑って、怒って、泣いて、また笑った日々。両親と共に過ごした確かな記憶――ちゃんと人間だ。犬じゃない。それなのに、今どうしてこんなことになっているのか。思い出せない。こうなる前はどこで何をしていたのだろう。  莉衣はそっと顔を上げた。  綺麗な青い瞳の青年――彼は誰なのだろう。 「お前、水飲めるか?」  差し出されたのは、水が張った白いお皿。  正直、喉は渇いている。今すぐにでも飲みたいくらいだ。だが、今は。理由はわからないが、犬になっているらしい。あり得ないことだ。大声を上げて喚き散らしても、おかしくはないだろう。それをしないのは、現実味がなさすぎて実感がないから。そして、体中が痛いからだ。  莉衣は恐る恐る、皿に顔を近づけた。小さく波打つ水に朧気に映った、黒い子犬。これが今の自分らしい。ため息をつくと、クゥ、という鳴き声が零れ出る。  喉はからから。羞恥心と天秤にかけると、背に腹はかえられぬ、ということで。ゆっくりと舌を伸ばした。ぴちゃ――水音が余計に羞恥心を煽るようで、体が熱を帯びてきたような気がした。それでも、喉が潤っていくのが、体に染み渡るのがわかって、水を飲むことは止められなかった。  全て飲み干すと、くすりと笑い声が聞こえた。 「思ったより元気そうだな。これなら、心配はないだろ」  わしゃわしゃと青年に頭を撫でられる。恥ずかしくて、けれど心地よくて。何ともむず痒い。  さて、と青年が立ち上がろうとした。離れていく――反射的に、莉衣は青年の服を噛んだ。 「ん? どうした?」  咄嗟に噛んでしまったが、どうしよう。莉衣はぐるぐると思考を巡らせた。今一人にされるのは困る。自分が置かれている状況がわからないのだ。見知らぬ人でも、そばにいて欲しい。 「一緒に連れてってあげなさいな、クルスちゃん」  ビクリ、莉衣の体が震えた。他にも人がいたのかと、顔を向ける。  ゆったりとした口調のその人は、ロッキングチェアに腰掛け、編み物をしながら、にこにこと笑っている。優しい顔をした高齢の女性だった。 「ばーちゃん、俺はこれから仕事なんだが。このケガじゃ連れてけないだろ」 「ふふふ。でも、その子はあなたと離れたくないみたいよ? きっと不安なのよ。一緒にいてあげなさいな」 「死にかけてたわけだからそれは……いや、大ケガした黒妖犬をばーちゃんに任せるわけにいかないか……。しょうがない」  クルス――そう呼ばれた青年は、莉衣をそっと抱き上げた。  ピッ、と変な声が莉衣の口から零れる。クルスはそのまま歩を進め、床に置かれた麻袋を担ぐと、木板でできた扉を開けた。 「じゃ、行ってくる。ばーちゃん」 「はいはい。いってらっしゃい、クルスちゃん」  目を細めて見送ってくれたお婆さんを、莉衣はじっと見つめた。何となく、不思議な感じがしたのだ。あのお婆さんを取り巻く空気感――ニオイ、が。何なのかはわからないが、とても切なく、胸が痛むような、そんな感じがした。
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