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翌日、よく晴れた空が広がっていた。
莉衣は前脚をぐぐっと伸ばし、次に後ろ脚も伸ばす。犬の姿も少しは慣れたような気がする。
慣れた――自分で思って、少し落ち込む。朝になったら人間に! ……ちょっぴり期待していたけれど、そんなことはなかった。どうして犬の姿になったのか。それを考えようとすると、頭痛がする。人間だったはずの自分は、どこに在るのだろう――
(でもわたし……自分の顔を思い出せないのよね……)
両親の顔はわかるのに、自分の顔はわからない。友人の顔も思い浮かべようとしたが、わからなかった。何となく思い出すこともあるけれど、顔は靄がかかったように見ることができない。
「チビ」
見上げると、クルスが皿を持って立っていた。
「朝飯、食えるか?」
小さく切ったりんごと、木の実。りんごは昨夜すりおろしてくれたものと同じものだろう。木の実は、見たことない形をしていた。小さな星のようなそれは、金平糖に似て、とても可愛らしい。恐る恐る口に含むと、カリッとした食感。味はアーモンドに近いだろうか。香ばしく、とても美味しい。
「んー……傷口はほとんど塞がってんな……」
クルスが呟く。必要ないと判断したのだろう。包帯が解かれた。
莉衣は自分の体を見る。ケガをした記憶がないため、どの程度のものだったか、よくわからない。ほぼ死んでいた、とクルスは言っていたため、酷かったのは確かなのだろうけれど。
体を軽く揺すってみた。まだ少し痛みはあるものの、動くには問題なさそうだ。
記憶もしっかり戻ってくれたらいいのに――歯痒さがあった。
「あれほどの傷が一夜で……。黒妖犬は傷の治りが早い……とは、聞いたことはありませんが……」
すでに支度を整えていたロベルトが不思議そうに話しかける。細い目を開き、驚いているようだった。
「まあ、ほとんど人前に出ることないからな。詳しいことはわかってないだろ」
「そうですが……それにしては、不可思議と言いますか……」
確かに、不可思議だ。自分のことがわからない莉衣だが、それでも、死にかけるほどのケガが、ほぼ一日で治るなどあり得ないとわかる。人間が犬になってる不可思議と、どちらがあり得ないだろうか――莉衣は首を左右に振った。
「それより、ロベルトさんよ」
低い声を出したクルスは、ある方向を睨んだ。
「あのお嬢様は大丈夫なのかよ」
ロベルトは困ったように、眉尻を下げた。
ミアの顔色が昨日より悪い。一晩の休息で疲れを取ることはできなかったのだろう。このまま山を登るのは、どう考えても危険だ。
「一度下山した方がいいんじゃないのか」
「はい……私も何度もお止めしたのですが……聞き入れてもらえなくて……」
「強情なお嬢様だな」
「……お嬢様にも理由はあるのです」
「理由、ね……」
興味なさそうに、若干呆れたように。クルスはため息をつくと、ミアに近づいた。無遠慮にミアの額に触れる。
「は、ちょ、なな、何するのよ!」
「……熱はないみたいだが……足を引っ張ると俺が判断したらすぐに山を下りる」
「な……勝手なこと……!」
「勝手はお前だ。お前の行動によっては、ここにいる全員を危険に晒すことになると、わかってるのか?」
ミアは顔を赤くして、ぐっと口を閉した。冷静なクルスの言葉は、痛いほどにわかってはいるのだろう。けれど、ミアにはミアの理由がある。それが何なのかは、わからないけれど。
「それでいいわ……」
俯くミアが小さく見えて、莉衣はそっと足元に寄った。ミアは少しだけ表情を和らげた。「ケガしたあなたを連れてるのにね」と。ああ、確かにその通り。莉衣は、くぅと鳴いた。
ミアの言い方は、ケガをしている莉衣を気遣ってのもの。けれど、そもそも危険があっても対処できるからケガした莉衣を連れていたはずだ。人間であるミアと、抱えられる小さな莉衣では状況が違うのかもしれない。それでも――
「じゃ、出発するぞ」
クルスは莉衣を抱き上げると、さっさと進んでいく。
――やはり、ミアには厳しいと思った。クルスは冷静で、間違ったことは言っていないのかもしれないけど。本当は苛々していたのだろうか。
二人の間にどんなことがあったのだろう。
人間関係の相性はどうしてもある。それは仕方がない。仲良しこよしを望むわけではないが――莉衣はクルスの腕からぴょんと飛び降りた。着地に少しの恐怖があったが、体は自然と動くもので。痛みもなく、地に足がつく。莉衣はミアの隣に並ぶと、歩幅を合わせて一緒に歩いた。四足歩行は、少しの違和感があるような、しっくりくるような、不思議な感覚だった。
「……利口な子ですね」
「……そうだな」
ロベルトとクルスの呟きを聞きながら、莉衣はミアに寄り添った。
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