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一時間ほど歩いた頃、クルスがぴたりと足を止めた。警戒するように、目を鋭く光らせている。
「クルス殿」
「ああ……ちょっと厄介だな」
「え、何……? 何かあるの……?」
「ミアお嬢様、少し後ろに」
ロベルトに言われた通り、ミアは一歩、二歩とさがった。きゅ、と不安そうに莉衣の体を自身へ寄せる。
ガサガサ――茂みが揺れる。つんとする臭いがして、莉衣は顔をしかめた。嫌な感じだ。
クルスは腰の短剣を一本引き抜くと、胸の前で構える。
――飛び出したのは、牙を剥き出しにした、何かだった。何か、なのは莉衣はそれを見たことがなく、正体がわからないからだ。
クルスが瞬時に斬り伏せ、その何かは地面に叩きつけられる。
「次くるぞ!」
合図のように、それらは一斉に飛びかかってきた。
莉衣は目を見張った。猛獣かと思ったそれは、頭しかない。狼のような、猪のような、熊のような。形が曖昧な何かの頭部だけが浮いている。あり得ない光景だった。
やっぱりおかしい――朧気な記憶ばかりだが、それでも、こんなものはあり得ないとわかる。
そのわからないものの動きは単調で、ただ真っ直ぐに向かって行くことしかできないようだった。クルスもロベルトも難なく躱し、確実に斬り伏せていく。
「……これで終わりのようですね」
「あんた、やっぱりかなりの腕前だな」
「クルス殿ほどではありませんよ」
「……しかし、この山で死霊なんて見たの初めてだな」
「普段ならいるはずがないと?」
「ああ。あんたらの目的である精霊遺跡があるからな」
「確かに……この豊かな山を見る限り、精霊の加護はあるはず……」
「……嫌な予感がするな。進むのは止めておいた方がいい……が、その気はないらしい」
ミアが力強くクルスを睨みつけていた。そこには、確かな意志がある。
「ここまで来て、戻るなんてない。加護がなくなったと決まったわけじゃないもの。私は……行かなきゃいけないの」
「……仮に加護がなくなったとすれば、精霊がこの場所を捨てたってことだ。巡礼のために来たなら、意味がないだろ」
「……まだ、決まってない」
ミアは譲らなかった。クルスは観念したのか、両手を上げた。少し急ぐと小さく呟き、また歩き出す。
――莉衣は、消えていく死霊を見つめていた。突然の情報量に、脳が処理し切れていない。
死霊は知っている。だが、見たことはない。実際にいるのかもわからない――そんな存在だ。精霊も知っている。けれど、死霊と同じで見たことなければ、存在を確実に証明できないもの。物語の世界の話。
クルスもミアもロベルトも、当然であるように話していた。死霊も精霊も、恐らく普通に存在している。ただでさえ、記憶がごちゃごちゃしているというのに、今の出来事で頭がパンクしそうだった。
知らないのではなく、覚えていない。それならいい。わからなくて当たり前だ。でも――これは知らないのだとわかってしまう。なぜだろうか。
全てを思い出すのが怖い――莉衣の胸に恐怖心が芽生える。それを振り払うように、三人の背を追った。
ふとクルスが振り返って、目が合う。ほっと、安堵。空色の瞳がある――ただそれだけで、不安は溶けていくようだった。
険しい山道を越えると、涼しい風が吹いてきた。空が開け、今までなかった切り立った岩壁と、緩やかに流れる川、細く落ちる滝――その裏に、奥に続く道が見えた。ここが目的地だと、何となくわかる。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ……じゃあ、ここで待ってて」
「……お一人で?」
「大丈夫よ」
ミアは急くように、濡れることも構わず滝の裏側へと向かっていった。焦りの色が濃く見える。
あそこに何があるのだろうか。莉衣はじっと凝視した。
――ここの空間は、やけに澄んでいる。居心地がよく、身体が癒やされていくような感覚があった。パワースポットみたいな場所だろうか。
ふと、莉衣の耳がぴくりと動く。滝の音に混じって、何かが小さく聞こえてきた。
これは、旋律――? 聞き取れないが、歌のようだった。ミアが歌っているのだろうか?
「……巡礼なんて、金持ちの道楽だろうに」
ため息混じりに呟いたクルスが、どかりと岩に腰かけた。
「……まあ、そうですね。精霊の加護を求めたところで、得られるわけじゃないですし」
「ただの自己満に付き合わされるあんたも大変だな」
「……お嬢様は真剣ですよ」
「ふーん……どうでもいいけど」
「……クルス殿」
「あ?」
「……もしかして、クルス殿は気づ――」
ドシーン――地鳴りが響いた。突き上げられる感覚に、莉衣はたたらを踏む。木々が揺れ、鳥は飛び立ち、小動物が騒がしく鳴いている。
イヤなニオイがする――上向き、鼻に集中する。不安になるような、濃い、何か。それはこちらに近づいてきていた。ドシン、ドシンと地を揺るがしながら。
現れたのは、巨大な猪だった。禍々しい黒い模様が体に浮かんでいて、おぞましい力を感じる。そして、莉衣が知る猪よりも遥かに巨躯だった。熊よりも、象よりも。仔犬の姿だからといって、家ほど大きくは見えないはずだ。そもそもこれは猪なのか。
ロベルトが戸惑い気味に大剣を構えた。
「クルス殿……これは……」
「ああ。ここの主だ。ずいぶんと様子は変わってるがな」
クルスも短剣を構えた。
「あの体の黒模様……呪刻化したか」
「死霊が出たのも、そういうことのようですね」
「ああ……残念だ。この山を守ってくれていたのにな」
なら、せめて――と、クルスは短剣を握る手に力を込める。
猪は鼻息荒く、毛を逆立てた。来る――そう感じた瞬間、猪はクルスに向かって勢いよく突進してきた。
クルスはそれを躱し、刃を横腹に突き立てる。
「……っ、かっ、てぇ……!」
跳ね返され、クルスは大きく後退。猪は追うように、顔を振る。すかさずフォローに入ったロベルトが、大剣を盾に牙を押し止めた。が、力比べで猪に敵うはずはなく、弾かれる。その隙を縫うように、クルスは跳び上がり、猪の左目を斬りつけた。そのまま短剣を突き立て、深く刺し込む。
これは効いたようで、猪は悲鳴を上げた。血を流しながら、ぶんぶんと巨体を振る。
「致命傷にはならねぇな」
「そうですね。もう片方の目を潰しても、鼻があれば我々のことは見えているも同然でしょうし」
「剣じゃ無理か……」
クルスはもう一本の短剣を腰から引き抜いた。猪の目に刺さっているものと違い、鍔の部分が装飾されている。
赤い石がきらりと光った。
「燃えろ、緋猿」
赤い石から炎の渦が巻き起こった。包まれた刀身が、赤い石と同じ色に染まる。
莉衣はその光景を呆然と見ていた。あの猪も、燃える剣も、意味がわからない。
――知らない世界が広がっていた。覚えていないのではない。知らないのだ。はっきりと、知らないことだとわかる。ここは、違う。何もかもが、違う。
「ロベルト!」
「はい!」
クルスが走り出すと、ロベルトは自身に注意が向くよう、猪の鼻を斬りつける。鬱陶しそうに、猪は低い声で唸り、ロベルトに噛みつこうと口を大きく開けた。
――後ろに回ったクルスが跳び上がり、尻尾を掴んだ。そのまま背に乗り、頭部に向かって一直線。燃える短剣を耳の後ろに突き刺した。
悲鳴と地響き――暴れる猪の首筋を何とか斬りつけ、クルスは振り落とされた。受け身を取り、すぐにまた向かっていく。
猪の右目は濁っていた。体の黒い模様が広がり、苦しそうに呻いた――かと思うと、相手の動きを封じるかのような咆哮が、衝撃波となってクルスたちを襲った。びりびりと身体が震え、膝をつく。
今突進されれば、確実に吹っ飛ばされる。莉衣は最悪を想像して、息を呑んだ。
「ちょっと、これは何の騒ぎ……!?」
ハッとして、声の方へと振り向く。困惑顔のミアが、こちらに駆け寄って来ていた。
「いけませんお嬢様!」
「え……?」
猪がミアに狙いを定め、勢いよく駆け出す。
同時に、クルスが舌打ちしながら動いた。しかし、間に合わない――ミアの目が大きく見開き、
「きゃん!!」
莉衣は思わず叫んだ。
ほんの一瞬、猪の意識がミアから逸れた。動きを止めるほどではなかったが、それはミアが我にかえる一瞬でもあった。懐から取り出した、虹色の石。
「虹虫!」
ミアが尻餅をついた。虹色の石が割れ、地面から木が生える。あっという間に大木へと成長し、猪の突進を受ける盾となった。
ミシミシ――軋む音。
猪は体当たりを繰り返し、突き進むことを止めない。あの木もすぐに倒されてしまうだろう。だが、時間稼ぎにはなった。その間にもクルスは走り続け、動けずにいるミアを抱えて跳んだ――同時に、木が倒される。間一髪、莉衣はホッと安堵の息を漏らした。しかし、危機が去ったわけではない。猪はすぐにまたクルスとミアに狙いをつける。
クルスは短剣を構える。刀身を包んでいた炎は、消えてしまいそうなほど小さくなっていた。
「っ、火力が足りねぇ。緋玉も亀裂入ったし、まずいな」
「……火力があればいいの?」
「あ? そりゃまあ……」
「これ、使って。あなたの宝環具、頑丈そうだから多分大丈夫」
ミアがクルスに見せた赤い石――緋玉。クルスの短剣の鍔に嵌められていたものより、濃く深い色をしている。亀裂の入った緋玉を押し込むように、ミアはそれを嵌めた。
「繋げ、緋猿」
亀裂の入った緋玉が砕けた。残り火を巻き込むように、勢いよく短剣が燃え上がる。その猛々しさは、短剣には収まらず、炎は長剣を象っていた。
空に響き渡った奇声。猪が地を揺らしながら突進してくる。
クルスは構え直した。息を長く吐き、地を蹴る。
――一閃。炎は猪の肉を裂き、全身を包み燃え上がった。
「……今までありがとな」
クルスの言葉に、猪は応えるように目を閉じ倒れた。体に刻まれた黒い模様は消え、穏やかな顔をしている。
炎はしばらく燃え続けていた――
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