一話 新学期

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あさきはぼうっと机の木目を瞳に映していた。城田はあさきの名字だった。しかし、あさきは返事をしなかった。あさきはさっきから今までのやりとりを、いっさい聞いていなかったのだった。 「城田さん。返事して」  やっぱりあさきは聞いていなかった。なので、また返事をしなかった。沢谷は、怪訝な顔で、あさきを見たが、そもそもあさきがずっとやる気のない態度をとっていることを知っていた。だからあさきを教科係に指名したのだった。 「寝てんの?」  佐田のグループの一人が、おどけてあさきに尋ねた。グループはどっと笑ったが、それでもあさきは聞いていなかった。反応をしないあさきに、おどけた生徒の顔が笑顔のまま一瞬固まった。 「城田さん!」  沢谷が教卓を名簿帳で叩いて叫んだ。前の列の生徒達は、うっと顔をしかめた。そこでようやく、あさきは顔を上げた。ようやく意識が浮上したのだった。浮上したが、あさきの感情はまだ沈んでいた。ぼんやりとした顔で、見ると、沢谷が息を荒くしてこちらを見ていた。 「立ちなさい!」  沢谷は顎をしゃくって、言った。立て、その言葉は理解したので、あさきはふらりと立った。反抗すると思っていたのだろう、少々虚をつかれた顔をしたが、それでもきっとして、言い募った。 「傍観者! 黙って見てれば君はさっきからなんです。いけません! 皆を見なさい!」  あさきは、視線をさまよわせた。笑っている目、引いている目、無関心の目、うんざりした目――を、無関心に見渡して、沢谷を見た。見たが、映しているだけで、何の感慨もわいていなかった。 「見ましたか! なら謝りなさい!」  あさきは、黙ったまま、沢谷を見ていた。それから目を伏せて、右手の人差し指で唇にふれ、その腹を噛んだ。 「城田!」  沢谷の怒りのボルテージが上がった。クラスは、半数は愉快がって状況を見守り、もう半数は、戸惑いやうんざりするなど、居心地の悪そうな空気を出していた。このまま授業がつぶれたらいいという空気と、勘弁してよ、という空気を、沢谷自身も感じており、内心ひるみ出していたが、表面上の怒りはさめやらず、止まることは出来ないでいた。 「まあ先生。緊張してんだって。許してあげなよ」  さきほどおどけた生徒が、沢谷に助け船を出した。沢谷は、きっとその生徒を見たが、ふっとほほえんで 「そうですね。僕としたことが、取り乱してしまいました。――城田さん、とにかく教科係をやりなさい。いいですね」  沈黙を肯定と受け取ることにして、沢谷はあさきに着席を命じた。あさきは何も言わず、席につく。そうして、今度は机に突っ伏した。沢谷は頬をけいれんさせたが、言葉を飲み込み、名簿帳に目を落とした。 「では、もう一人の教科係は――友森君!」  ここで、もう一度声を張り上げた。しかし、もう怒気はなく、沢谷はいつもの調子を取り戻していた。 「友森君!」 「――はい!」  沢谷の声に、三秒ほど遅れて机が揺れる音のあと、後ろの席の方から返事が飛んできた。三秒目を食い気味にした、今ちょうど起きた人間があげるような、あわてた返事だった。そのせいか声はやけに大きく、忍び笑いが漏れた。そして実際に友森は寝てしまっていたらしく、返事をしてから、自分が何に返事をしたのか考えていたようだった。 「教科係。やってくださいね」 「あっすみません、先生。頑張ります」  にっこりと笑った沢谷に、少し照れくさそうな声が答えた。友森の声は澄んだよく通る声で、張り上げていないのに、まっすぐに黒板まで届いていた。  あさきは、この声の持ち主と、自分が同じ教科係であることを、ふと頭に浮かべた。すぐに払いのけてしまった。  沢谷が他の係への指名に移る中、あさきの意識はまた、沈んでいくのだった。  授業が終わり、沢谷が出て行く中、クラスは喧噪に包まれた。 「やべー」 「聞いた?」 「ボウカンシャ!」  佐田のグループは、沢谷のまねをして、身震いした。引き笑いがクラスに横線をはるように響いた。彼らだけでなく、生徒たちのほとんどは、沢谷の振る舞いを話題にしていた。その話題につられるように、数人かはあさきの方へ何度か視線をよこした。あさきはぼんやりしていたが、スマホが揺れたのをきっかけに、浮上させた。 『大丈夫? 先生まじできもいよね』  ラインのメッセージだった。あさきは、スマホを机に置いて、それから机に突っ伏した。 『もんだいないよ』  そこまで打って、やめてしまった。目を閉じて、続きの言葉を心の中でつぶやいた。  何にもかわらないよ。
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