二話 くらい家

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家に着いたのは、七時を過ぎた頃だった。日はとっぷりと暮れ切り、あたりは真っ暗になっていた。 「じゃあ、また明日ね」  隣の家に、早愛は入っていった。しばらくして、「ただいま」という早愛の声に、「おかえり。遅かったわね」という中年の女性の声が聞こえてきた。それから、明るい話し声が暖色の光の漏れる早愛の家で聞こえ出す。確認していたのではなく、ただあさきは、自分の家の前で立っていたままだったから聞こえたのだった。あさきの家は、一室をのぞいて電気がついていなかった。  あさきはうつむいて、門をくぐった。空っぽの植木鉢や、プランターの並ぶドアまでの道を進んで、ドアに手をかけた。  ドアを開ければ、ドアベルがわずかな音を立てた。中に入ると、あさきは鍵を閉めた。重い音で、錠は落とされる。  リビングは真っ暗だった。隣の早愛の家の明るさが、キッチンの窓に映って、あたりを薄ぼんやりと照らしていた。必要ではないからと、気づいていないからだった。あさきは、明かりを叩くように点ける。一拍置いて部屋が照らされる。リビングは散らかってもいないが、清潔に保たれているというより、人の痕跡がないからというような空気をまとっていた。あさきはダイニングへ進むと、テーブルにパンの袋を置いた。袋の中で、パン達がなだれる音が聞こえた。自分の部屋へ向かう為、廊下に出る。廊下には、ある一室から漏れた笑い声が響いていた。あさきは立ち止まる。すると、ちょうどその部屋から、「ちょっと待っててね!」と、はしゃいだ様子で出てきた妹とはち合わせた。 「アンタ?」  妹はあさきの顔を見ると、落胆と嫌悪の混じった顔を見せた。それからもう見たくないという風に顔を逸らして、あさきの脇を通り過ぎる。 「今日、お母さん調子いいんだから」  じゃましないでよね。  すり抜けざまに、そうささやいていった。方向から、トイレに行ったのだろうと、あさきは察した。あさきは黙ったまま、自分の部屋へ続く階段を上った。妹の出てきた部屋――この家でたった一室だけ明かりがちゃんとついている部屋――にもう一度視線をやった。そしてすぐにそらした。妹が隙間をあけて行った部屋からは、光がさし、暗い廊下を照らしていた。妹の抜けたその部屋では、わいわいと弟がなにやら明るい声で話しかけていた。  部屋の主は、壁にもたれ込んで座っていた。顔は見えなかった。スカートをはいた足と、その上に投げ出すようにのせられた細い手だけが見えた。あさきは人差し指で唇にふれた。  毎日よくやるな、あさきは思う。毎日毎日、ずっとそうしているのだ。家に帰ってきてから、ずっとその部屋にこもりきりだった。相手は、何も聞いてはいないのに。  階段を上り、あさきは部屋に鞄を投げ込んだ。ごんと重い音がたったが、気にしなかった。ベッドにもたれて床に座り込む。息をつくと、すぐに起きあがった。ソフトクリームで汚れた手がべたついて気持ち悪かった。  洗面所へ向かうと、妹が手を洗っていた。鏡に映っているだろうに、視線一つよこさなかった。あさきは妹が洗面所のタオルで手をふいて去っていくのを見ると、自分も手を洗った。そこで、ちょうど玄関の鍵が開く音がした。 「ただいま」  父だった。靴をぬぐとすぐに、洗面所にやってきた。妹や弟が、音を聞きつけたのか、部屋から出てきて 「お父さん!」  と駆け寄ってきた。 「お母さんは?」  開口一番、父は二人に聞いた。 「今日ね、ちょっと元気」  二人はうれしそうに答えた。父は、「そうか」とかみしめるように安堵した。手を洗いうがいをすると、すぐに部屋に向かった。二人も後に続いた。あさきは、洗面所の隅で、それらをやり過ごし、ひとりダイニングへと向かった。廊下で、 ――七緒、ただいま。  よく通る父の大きいやさしげな声が、背にぶつかってきた。あさきは早足になった。  あさきは、テーブルに置いた袋から、パンを物色した。自分が買ったから全て知っているのだが、それでも一応何を食べるか考えた。数秒後、メロンパンをつかむと、自分の席に腰掛けた。  あさきがメロンパンの中腹まで攻略したころ、わいわいとにぎやかな声が、こちらに向かってきた。父と、妹、弟がキッチンに入ってきた。父はひとりキッチンに残り、妹と弟は、ダイニングの、あさきの座っているテーブルにやってくると、テーブルの上の袋を開いて、物色を始めた。ここ三年ほどの習慣で、ふたりはテーブルに何か置かれていると、食べ物だとわかるのだった。 「たいしたのない」  妹の不満げな声に、弟が「まあいいじゃん」と言いながら、ウインナーパンを取り出した。妹は、あさきをにらんでから、あんぱんを取り出した。それからまた、部屋に二人はかけていく。  父と二人残されたあさきは、ずっと黙ってパンを噛んでいた。父もまた黙っていて、朝の冷や飯をなべにかけて、お粥を作っていた。 「今日もパンか」  不意に父が口を開いた。あさきは返事をしなかった。父も、あさきの返事を期待していないのか、自分の間で言葉を続けた。 「栄養がかたよるだろう。はるひも、空も、育ち盛りなのに」  声には、心配と呆れがあった。あさきはそれでも黙っていた。父は、人の良い顔を、しかめた。できあがったお粥を、ちいさな桜色のお椀に移すと、あさきに向き直った。 「二人とも、小さくてもあんなに頑張ってるんだ。あさき。お前は、もう十五歳だ。家族に、何かしたいと思わないのか」  あさきは人差し指の腹を、ひときわ強く噛んだ。お腹の底が、燃えるように熱かった。こんな時でも父の声には一種のあたたかみがあるのが、不思議だった。左手の中の残りのメロンパンを、握りしめた。握りしめて、テーブルに置いた。手はふるえていた。  それでも、決して口を開かないあさきに、父はため息をつくとお盆にお茶の入った湯飲みとお粥をのせて、キッチンを出ていった。向かう先は、やはりあの部屋だった。 ――七緒、どうだ。食べられそうか―― ――お母さん、パンもあるよ。半分こする――  父の励ますような声に、妹と弟のはしゃいだ声が続く。耳をすましているわけでもないのに、異様によく聞こえた。あさきは立ち上がると、パンをそのままに、ふらふらと自室へと戻った。真っ暗な部屋のなか、ベッドに倒れ込むと、置いてあったイヤホンを耳につっこんだ。ポケットからスマホを取り出して、イヤホンジャックにつなぐと、YouTubeを流した。聞いていないので、流れるものは何でもよかった。足下から、真っ暗なものがやってきて、あさきの意識を落とし込んでしまうまで、あさきはイヤホンの上から耳を両手で塞いで、丸くなり震えていた。
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