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その問い――確認に、あさきは頷いたか、頷かなかったのかは、わからない。
ただ、一人のような心地で、その時を過ごした。父はそれきり何も言わず、あさきを見なかった。あさきはそれに、心許なさとわずかな安堵を覚え、席を立った。時間ももう遅いから、といいわけをした。
あさきはそれから風呂に入った。事務的な日常の行為をこなして、部屋に入った。父の背はずっと、キッチンのテーブルにあった。かけよって抱きしめたい衝動にかられたが、どうしてもそれができなかった。
ベッドに入り、布団に頭までくるまった。クーラーをつけていないから、すぐに汗だくになった。なのに、体は氷のように冷たかった。あさきは自分の手がふるえているのに、そこでようやく気づいた。
気づいた瞬間に、せきを切ったように、心が体を圧迫した。あさきは頭を抱え、口を開いた。叫んだはずの声は、のどがふさがって、音にならなかった。
うそだ
あさきは髪を引っ張った。手が濡れて、ドライヤーをかけ忘れていたことに気づいた。
うそだ、うそだ、うそだ
あさきは心の中で何度も何度も叫んだ。心の中の全てを、その言葉で埋め尽くそうとした。
――あさき、待っていてね――
しかし、頭がもう一つあるみたいに、必ずあの日の母の声が、あさきの頭を浸食した。あさきは細い金切り声を上げた。黒板を釘でひっかいたような、不快な声だった。
母さんどうして?
否定し尽くして、母に埋め尽くされて、疲弊したあさきの頭に浮かんだのは、その一言だった。
どうして、どうして?
わからなかった。目を閉じれば、母の笑顔がよみがえる。「お母さん」と駆けていけば、いつも、笑って受け止めてくれた。手の、腕の温かさをはっきりと思い浮かべられる。優しく、無邪気で、あたたかな母の笑顔。ずっと生まれたときからそこにあって、続いていたもの。
――大好き。みんな、私の宝物よ――
母さん、どうして、どうして――
『お母さんはだまされたんだ。あさき、わかってくれるよな』
父の言葉がよみがえる。
わからない。お父さん、わからないよ。
どうしてもわからなかった。
だから、うそだ、とあさきはまた繰り返す。
そうして、また、母の笑顔を――
夜が明け、脳が限界を迎え気絶するまで、あさきはずっとずっと繰り返していた。

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