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山奥の茶屋
「いかん、これは……まいったな」
天気予報では午後から濃霧になるというような事は言っていなかったはずだが、1メートル先が見えなくなっている。
このまま、先に進むと滑落してしまうかもしれない。
「あの場所でテントを張るべきだった。ビバークするしかないか」
二年前から趣味で登山を始めたが、山に慣れ始めて少々油断をしていたのかも知れない。
ともかく、この濃霧では先に進むのも戻るのも危険なので、この周囲でビバークできる場所を探すしかない。
「なんだ、あれは……山小屋か?」
私は立ち止まりザックを背中から降ろしていると、霧の向こうにぼんやりと明かりが見えた。もしや引き返してきた登山者かと思ったが、微動だにしないところを見るとそうではないようだ。
不審に思いつつも、今降ろしたザックを背負うと慎重に光の方へと向かっていった。
「こんなところに、茶屋か……助かった。しかしずいぶんと年季が入っているな」
古めかしい昭和の懐かしさを覚えるような茶屋に私は安堵して店を覗き込み声をかけてみる。
このあたりに茶屋があったような記憶は無いのだが、私が見逃していたのだろうか。
こんな山奥で茶屋を営んでいる人間の人物像と言えば老夫婦が自然に思い浮かんだ。
反応はなく、さすがにもうこの時間では近くの村か下山しているのかも知れないと不安になってきた。
鍵を閉めていないのも田舎ならではなのか。
もう一度、声をかけようとするとエプロン姿の若い女性が現れた。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらに」
「は、はい」
切れ長の目に黒髪の美しい二十代半ばほどの女で、神秘的な美人だ。予想とは違う店員に私は一瞬戸惑いつつ、促されるように店の中に入った。
畳の上に机、壁には古めかしいメニュー表が貼られている。全体的にセピア色を思わせる店の作りだ。他の従業員は他にいないようで、女ひとりで、店番をするには防犯面で不安はないのだろうなと気にはなったが、私は注文を頼んだ。
「とりあえずビールと……枝豆にしようかな。濃霧で先に進めなくて困っているんです。戻ることも危険なので、この店の端でも良い、休ませてくれませんか?」
「――――かしこまりました。構いませんよ。お客様の好きなだけここで『おやすみ』してください」
この濃霧なら、この人も外には出られないだろう。見知らぬ中年男と一夜を共に過ごさせるのは、正直気が引けるし気まずい。
若い女と二人きりなんて妻にも申し訳無さを感じるが仕方がないだろう。
――――そうだ、妻。
尚子には苦労ばかりかけてしまっていたな。
枝豆をつまみにしながら、ビールを飲んだ。
「ありがとうございます。実は私、一年前から趣味で登山をしていまして……この年でようやく山の良さを知ったのです」
「――――山は良いでしょう。一人になって考え事が出来ますから」
「はい。恥ずかしながら私、事業に失敗しまして……妻の、尚子にはずいぶんと苦労かけました。必死に二人でまたいちから出直して働いて……ようやく新しい店も軌道に乗ったかと思ったんですが、病気を患ってしまったんですよ」
「――――辛いですね。お子さんも元気に社会人として立派に働いていらっしゃるでしょう」
――――そうだ、康之も昇進したと言っていたな。
梨花も子育てしながら尚子を手伝って店を支えてくれている。
子供の頃の二人の思い出が走馬灯のように蘇ってきた。
「ふたりとも立派に育ったなぁ……。私がいなくても、尚子は大丈夫かな」
「――――そう思えたから、ようやくこの茶屋を見つけられたんですよ、小出さん」
目の前に正座したエプロン姿の店員はにっこりと微笑んだ。いつから私はこの山に登っていたんだろう、登山口に向かった記憶も曖昧になっている。
いいや、もう私は病を患って一年前から登山なんてできない体になっていたじゃないか。
濃霧が晴れていく気配がして、私は目の前の若い女に声をかけた。
「…………また、家族に会えますかね」
「いずれ、奥様もお子様も来られますよ。安心して下さい。きっと次も一緒になれますよ」
私はザックを背負うと、濃霧の晴れた美しい山の風景を眺めた。その頂上は日の出のような光が登っている。
この先に向かえば、頂上にたどり着けるのだろうか。
「小出さん、お気を付けて。到着したら長いおやすみになりますよ」
あの女は死神か、それとも登山好きの私の前に現れた山の神様なのか……粋な計らいだ。
ともかく、一足先に登って家族を待つことにしよう。
苦労も多かったが楽しい人生だった。
家族を待つ間の長い休みも良いだろう。
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