一章 足早

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 東京、冬。 それはそれはバケツをひっくり返したような雨が降ったので、大学に行く途中、古臭い喫茶店に駆け込んだ。店先で雨粒を払い、ヘッドフォンを拭きながら店に入る。雨はカーテンのような帯状で激しく降っている。そんな2月の雨は、指先の感覚を殺すのには十分だった。店の客はまばらで、店内はトーストの焼ける香りと珈琲の深い香りに包まれている。この店は、カウンターで薄汚れた羽織りを着て、よれた煙草を吹かしている渋い爺さんのみで営んでいるようで、店はそう大きくなく、古民家のような喫茶店だった。  俺は珈琲を注文し、感覚のない手で小銭をかき集めて金を払った。店の隅の席に座り、大正レトロのような店内を見渡す。素朴な店内の壁には沢山のレコードがかかっており、カウンターの端に置かれた古いレコードプレイヤーは飾り物と化している。それは都心にある煌びやかでファッショナブルなカフェよりも、どこか趣深いものを感じた。依然止む気配のない雨は、店の錆びたトタン屋根にカツカツと音を立てて落ち、冬の空気を鋭利に切り裂くばかりであった。  全く、天気というのはよく言ったものだ。「天の気まぐれ」と書くだけある。天気予報など当てになりやしない。所詮、やはり「予報」でしかないのだ。ウェザーニュースによれば、あと2時間、雨は止まないという。しかし、それもまた「予報」だった。これだけ天気に文句はつけたが、俺は雨が好きだ。雨の匂いや、音、雨が作る景色が良い。湿った灰色の世界では、頑張らなくてもいい気がする。頑張って通学しなくていい。働かなくていい。雨が降っているから休みの日にしていい。なんとなく、そんな気がするのだ。  注文した珈琲はとても美味しかった。酸味という酸味がなく、おまけに雑味も少ない。深い香りと程よい苦味が自分好みであった。店内は今時珍しく喫煙ができたので、俺も煙草を吸おうと、トートバッグの中を探った。トートバッグの中身はノートパソコン、万年筆とノート、読みかけの本、財布、スマートフォン、それからZippoライターにお気に入りの煙草。荷物は少ない方が好きだ。探し物はすぐに見つかるし、肩は凝らないし、満員電車で嵩張ることもない。目当てのものはすぐに見つかった。Zippoライターをカキン、と鳴らして煙草に火をつける。きつめのメンソールが深呼吸と共に肺を満たしていく。どうせ大学の講義には間に合わないので、読みかけの小説を読み進めることにした。  どれぐらい時間が経っただろう。気がつくと雨は止んでいた。本を読むと時間を忘れてしまう。安物の腕時計を見ると2時間が経過している。今度の天気予報は当たっていた。俺は残っていた珈琲を飲み干し店を出る。外に出ると冬の匂いに混じって雨上がりの匂いがした。店先の緑には雨露が積もっている。あたり一面灰色がかった景色は俺好みのいい景色だった。ハァーと息を吐けば、真っ白になって俺の体温を空気に溶かした。大通りに出るまで俺一人分の足音が聞こえる。それがなんだか妙に寂しくて、俺はヘッドフォンをつけ、音楽でそれを掻き消し、10分ほど歩けばいつものように都会の人混みに混ざった。沢山の声、電子音、雑踏、車の音、電車の音……。行き交うサラリーマンや学生、OLはみんな揃って耳にイヤホンを突っ込んで音楽を聞いているようだ。まるでつまらなそうにしている。俺もきっと同じだ。
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