二十七.天衣無縫

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 「舜一郎さん!」と自分の名前を呼ぶ声は弾けるようにきらきら、と輝き、とてつもなく甘美だった。実際の清花は舜一郎の一歩手前で止まったが、もし美千代が居なかったら自分の胸に躊躇わずに飛び込んで来ただろう。たった二ヶ月はされど二ヶ月だった。久しぶりに(まみ)えた唯一無二の花はこんなに美しかったのだ!  「ああ、お会いしたかった!」と清花は咽び泣かんばかりに舜一郎の手を取った。するとまるで媚薬が効いてきたように舜一郎の手が熱くなる。  「清、俺も……よく来てくれた」舜一郎は半ば逃げるように眼を彷徨い泳がせる。そうでもしないといっそう艶やかに輝いている清花を愛でては狂い出しそうだった。幸い、泳がせた先に美千代が居てくれてそれが舜一郎の劣情を消し去らせた。  「舜一郎さん、私までご招待ありがとうございます。この子ったら一週間前から着物を選び始めたり、お化粧道具を買いに行ったり、と大変でしたの」  「お母さん!」そこで初めて舜一郎は清花が化粧を施していることに気が付いた。今までは唇に紅を乗せるだけだったのに今日は眼の周りと頬にも色を縁取っている。夏の鎌倉ですら相見えなかったその姿、それは清花の美点を全面強調していると同時に自然の、在るがままの美しさを削ぎ落とし人口的な美しさを演出した西洋的細工だった。  「申し訳有りません、舜一郎さん」と清花はしゅん、と項垂れる。「でも今日は舜一郎さんの大学のお祭りですし、久しぶりにお会いするから……尚更子どもに見られたくなかったんですの」  「お……清を子ども扱いする人間など居ない」  「でも大学は大人の方がいっぱいいらっしゃるのでしょう?」  「それはそうだが」  「清花、それは自分の眼で確かめなさい」と美千代が窘める。「舜一郎さん、本日はよろしくお願いします」  駅から大学までの道中、清花は舜一郎の傍を一寸と離れなかった。腕を組み、まるで暖を取るのと同じように身体をぴたり、と甘えるように寄せて来る。身を預けてくれることは嬉しい。着物越しに感じる清花の体温とそこから香る芳香が気持ちをあっという間に夏に引き戻すが後ろを歩く美千代の視線がまるで針のように舜一郎の背中をちくちく、と刺して許してくれない。見えずとも彼女の感情が実体化しているよろしく、痛みを感じるのだから不思議だ。  大学に近付くにつれて清花は眼に見えて落ち着かなくなり、手鏡で何度も自分の顔を確かめたり、手に持つ鞄や紙袋をゆらゆら揺らしながら衿や上前を整えるのに余念が無くなっていった。  「見苦しいところは無いかしら。私、どうですか? 変じゃ有りません?」
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