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大掃除が終わった時、時刻は五時を回っていて空はとうに夜に変わっていた。道場を出ると顧問の北条先生と白河先生が待ち構えるように立っていた。恵里菜が言っていた「良いこと」はドーナツチェーン店の大きな箱の姿をしていた。大掃除で盛大に腹を空かせていた部員たちにとってはまさに「良いこと」だった。
「他の奴らには話すなよ! じゃないと二度と無いからな!」と北条先生ががなり立てて釘を刺した。
先生方が道場を辞するとたちまち剣道部限定の小さなパーティーが始まった。クリスマスデザインのドーナツを食べながら自然にクリスマスが話題に上った。清花が大学生の恋人と出かけた、と聞いて男子剣道部の一年生が一斉に地団駄を踏んで悔しがったが品川プリンスホテルの名前が出た途端、空気が変わった。
「最近あそこ、変なセミナーみたいなのやってるんですよね。まさに源川先輩が行った日にもやってたって親が言ってました」と加藤が言った。
「変なセミナーってどんなだよ?」と白原が聞いた。
「会合の名前は普通なんですよ。『何々親睦会』って。ブランドもののスーツ着たおっさんと若い女が集まったビュッフェスタイルで食事も沢山出ていて音楽も流していて。でもなんかその……聞こえて来た内容が普通じゃ無いっていうか、宗教みたいで怖かったんですよ。『絶対に叶う!』とか『人生が変わる!』とか」
「何それ怖っ! っていうかそれ、こないだ授業でやったマルチのやつじゃない? ほら、中高生を狙って勧誘するってあれ!」と恵里菜がドーナツをジャージの上に落としたのも構わず叫んだ。
「えっ、あれ!? 仮にも一流ホテルがそんなパーティーやるかよ! 世も末だな!」
「えっ、二年生、そんな授業有ったんですか?」と有紗が他の一年生と首を傾げた。
「っていうかどうして加藤くんはそのこと知ってるの?」と奈緒美が聞いた。
「俺の親、プリンスホテルで働いているんです。橋本先輩」
「でも親の金しか持ってない中高生狙ってどうすんのかね?」と柳川が理香と同じ質問をする。その言葉に会話がぷつん、と無くなる。皆、考えているのだ。生徒たちの生活圏内にマルチ商法の息と気配が有る、ということは危機感と緊張感を増幅させた。
「その親を狙っているのかも知れない。中高生を通して」と山本が残ったチョコドーナツを口に放り込みながら言った。「品川プリンスホテルは高級ホテルだしここは港区だ。有力なコネをゲットするにはうってつけだ」
「俺なら六本木狙うけどな。それか丸の内」
しかし山本は首を振る。「六本木ヒルズがマルチを相手にすると思ってんのか? イベに行ったその足で警察か消費生活センターに行ってるぜ」
「違いない」白原の言葉にどっ、と爆笑に沸いた。清花は機械的にドーナツを食べた口を拭いた。
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