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◇◇◇
早朝、憂鬱なシーンがよく似合う雨が降っていた。今日は映画のロケ。
台本を捲る道生を車に乗せて朝飯のパンを渡して海に向かう。これから道生は夏の海で女を刺し殺す。
映画の冒頭シーン。浮気した妻が夫に刺し殺された後にゾンビになる映画。道生に求められているのは世界観への没入で、観客を映画の世界に引き摺り込む橋渡し。
男は刺すつもりでナイフを用意し、刺す前に逡巡して悩んでそれでも刺して後悔して苦しんで、それでも愛していたから死を区切りにして生き返ってほしい、と願う役。
ドラマ的にはよくあるけれども通常人には到達し難いその心境と行動について、監督はわずか十分足らずのシーンのために三時間ほどかけて道生に説明していた。
この監督の映画は三本目だが役作りも何もない。道生は説明を詰め込めば詰め込むほど忠実に再現する。例えば生き返って欲しいなら刺さなきゃいいじゃんとか普通は疑問に思うけど、記憶がない道生は疑問に思わずそのまま非凡に再現する。冒頭でうまく映画に引き込むからこの監督の作品はヒットを飛ばしている。
そう考えていると現場にたどり着き、海岸に立つ道生は仕込みナイフで女優を刺した。女優はくずれて砂浜に沈み、それでリテイクはなしで仕事は終わり。昼前にはまた車に乗り込んで窓をあけて海岸道路沿いを進むと強い風が舞い込み、淀んだ空気を吹き飛ばしていく。
今日の夜は予定がある。
「ねぇ、瑶は人を刺したことある?」
「ないよ。お前もないと思うよ、多分」
「そうか。この人にとって奥さんを刺すのが幸せなのかな。結婚してるんだよね」
なんとなく道生は気にするのかなとは思っていた。
「わからん。結婚しても刺すことはあるだろうし幸せでないこともあるだろう」
「まぁ。そうか。刺された人は幸せなのかな」
「どうだろうな」
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