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真夏になると、この仕事は大変になる。
毎日、毎日、暑い。
きっと、この場所は灼熱だ。
※蜻蛉玉(とんぼだま)とは、柄が入った小さなガラス玉(ビーズ)のこと。模様のついたガラス玉をトンボの複眼に見立てて「とんぼ玉」と呼ばれたといわれている。
「お客様、初めてなのにお上手ですね!」
「そうですか?」
高音の炎の前で溶かしたガラスを、剥離剤(はくりざい)を付けた細い鉄の棒に巻いていく。
そこに好きな色のガラス棒を垂らしたり、一周回したりしてガラス玉に柄を付けていく。
それが世界に一つの蜻蛉玉になる。まん丸くて透き通っていて、中には色々な柄が引き詰められていて。
「うわー綺麗!ありがとう!」
私は出来上がった蜻蛉玉の穴に紐を通し、ネックレスにしたものをお客様に渡す。
この瞬間が一番好きだ。
お客様の喜んでくれた顔を見る瞬間が。
私はガラス職人をしている。ここのガラス工房で修行をし、ここで働かせてもらっている。毎日大変だけど、好きな事を仕事にしているのは幸せだと思う。
「浅井さん、お疲れ様」
「あ、森内さん、お疲れ様です」
長身の彼は、ここの工房の経営者でガラス職人。彼は私の師匠だ。棚を掃除していると、彼が制作したガラスのお皿を手に取る。それは光を乱反射させ、透明な色味の中に埋めく白青のラインが輝く。やっぱり彼の作品は、溜め息が出るほど美しい。
惹かれるのは作品だけではない。
「森内さん……誰かに見られますよ?」
「大丈夫。今日はもうお客様は来ない」
長い腕が後ろから伸び、ぐっと抱きしめられると、もっと吐息が漏れた。その腕に指を沿わせると、私の中の想いが熱で溶かされていく。
まるで、近くで燃え盛る炎みたいに。
彼の唇が首筋に触れると、その場所から熱いものが全身を循環させて呼吸が乱れる。
「愛してるよ」
そう呟く彼の薬指には、結婚指輪がいやらしく輝く。その硬い感触をわざと触ってやる。
「嘘つき」
「嘘なんてついてないよ」
「奥さんの方が愛してるくせに」
「君の方が愛してる」
「じゃあ、証明して?」
彼は私の体を回転させると、無邪気に笑いながら、唇を寄せて抱きしめた。
私の方を愛してるなら、なぜ、別れない?
いつもはぐらかして、何もなかったかの様に抱きしめてくる彼。
もう分かっている。奥さんの方を愛しているから別れないんだって。
私はただの都合のいい女だという事に。
行き場のない想いが、目に映る赤い炎に吸い込まれて溶けたなら、どんなに楽だろうか。
次の日、
私はいつもの様に彼の作った作品を眺めていた。小さなケースの中には、色とりどりの蜻蛉玉。ケースを振ると、ひしめき合ったガラスがカラカラと涼しげに踊る。
茜、浅葱、琥珀、萌葱……桔梗色。
トンボの眼ってこんなに美しいっけ?
私は額から流れ出る汗を床に落としながら、燃え盛る炎の前でガラスのコップを作る。
棒の先を優しく咥え、ゆっくり息を吹き込むと、透明な膜が出来上がる。崩れない様にゆっくりと手首で回していく。
あの人に褒められたい。
もっと上手に作れる様になって、私を愛して欲しい。
汗粒が床を染めると、あの人から零れ出す汗を思い出し、脳みそも心も体の奥も得体のしれない熱で溶けそうになった。
「あのー、すみません!」
聞き覚えある声に心臓が反応する。
この柔らかな泡みたいな声は忘れない。
「森内さんの奥様、どうされました?」
「あ、一緒の工房の……」
「浅井です」
「あ、そう、そう浅井さん」
黒みがかった長いつや髪を耳に掛け、目を細め、にっこりと微笑む。次の瞬間に大きく瞬く瞳は、ガラス玉みたいに美しい。
「あの人、今日お弁当を忘れちゃって。あの人は今、留守?」
「はい。材料の買い出しに行ってしまって」
「そっか。これ渡しておいてくれる?」
渡された二段のお弁当箱を両手で貰う。
「そのガラスのコップあなたが作ったの?」
「はい」
「へー、綺麗ね!」
私の方に寄った髪が前に揺れる。机に置かれたガラスを見つめるガラスの瞳。
その近くには灼熱の炎が、ゴオゴオと燃えている。
近くでガラス玉を見つめると、その瞳にあの人が映り込むんだと思うと、胸の中で燻っている何かが灯りを灯す。
私は知らない内に、近くにあったハンマーを振り上げていた。
「ただいま」
「おかえり」
「何、してるの?」
「掃除だよ」
私はデッキブラシを必死に動かす。床についた痕を綺麗に洗い流すみたいに。
ゴシゴシゴシ……
「その、赤い痕は何?」
「ちょっと、さっき怪我しちゃって」
そう言いながらも手を必死に動かす。
「怪我……してないよね?」
彼が私の腕をバッと掴んだ。怖い顔をして私を見ている。机に置きっぱなしのお弁当箱にも気づいたみたいだ。
「妻が……来たのか?」
「さっき帰ったよ」
「嘘だろ?」
「嘘つきはあんただよ。愛してるなんて言って」
私は作ったばかりの赤と白の蜻蛉玉を、彼の前に見せながら呟く。
「キレイな蜻蛉玉でしょ?それあげる」
「蜻蛉玉?普通のより大きいじゃないか……まるで……」
彼はその蜻蛉玉を間近に見ると、顔を真っ青にしてそのガラス玉を落とした。
「うわあああああー!!」
落ちたガラス玉は鈍い音を立て、床に叩き落ちる。透明な膜にヒビが入って、中身があらわになり、ドロリと飛び出す。
コロコロと彼の足元へ転がる。
美しい生気を失ったガラス玉。
「あなたが大好きな目ん玉じゃない。何を怖がっているの?」
「……め、目ん玉?!」
「だって、憎かったんだもん。あなたの瞳にこの瞳が映り、この瞳にもあなたが映り込む。そんな事イヤに決まってるじゃない」
「お、おい……この目ん玉って……」
彼がそこに転がる目ん玉を見つめる。
ゴオゴオと炎はまだ燃え上がる。
「あなたの奥さんの目ん玉よ。穿り出してガラスの膜を貼って、蜻蛉玉に仕上げたの。美しいでしょ?あなたが愛している目ん玉よ。嬉しい?」
目の前の彼は腰が砕け、床に崩れ落ちる。
その下には奥さんの血痕がひしめく。
私は彼に向けて、血だらけのハンマーを振り上げる。凍りついた空を切る様に振り上げる。
舞い上がる液体が、私のガラス玉を赤く染め上げる。
それは、雨の様に降り注ぐ。
何度も、何度も、何度でも。
私の想いは、憎しみは、悲しみは、
溶け出したガラスの様に
灼熱に溶けて
美しい蜻蛉玉に生まれ変わる。
完
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