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 その日は、放課後に二人の友人と帰り道にある公園で遊んでいたのだが、いささか夢中になり過ぎて、時間が随分経っているのに気付かなかった。  ふと顔を上げると、燃えるように赤い夕陽があって、単にもう帰らなくてはいけないなと思った。 「暁、帰るのか?」  公園で一緒に遊んでいた友人の一人が額の汗を拭いながら聞いてくる。小学一年生にしては体格のいい春音(しゅんと)は、暁の一番の友人だった。 「うん。暗くなる前に帰るんだぞってお父さんに言われているから」 「お前んち、お父さんきびしーのか?」  もう一人の友人である疾風(はやて)がボールを網に仕舞いながら、何やらにやにやと見てきた。 「何だよ。べつに厳しくないよ。すっごく優しいし。でも、ちょっとでも遅く帰ると怒られるけど……」 「お前、それ何て言うか知っているか」 「何て言うの」  暁の代わりに春音が尋ねると、疾風は得意気に言った。 「カホゴって言うんだって。俺の妹に対して、俺のお父さんがしているのと、お前に対してお前のお父さんがしているのは同じに見える。でも、それって何か変じゃね?」 「何が」 「だって俺のお母さんが言ってた。お父さんは男親だから娘が可愛いのは仕方ないって。でも暁のところはそうじゃないだろ?何か、お前が」  オンナノコみたいと疾風が言う声に被さるようにして、夕方5時のチャイムが鳴り始める。 「やっべ。俺帰らねえと」 「俺も。じゃあな、暁」  暁だけが帰る方向が違うせいか、二人に取り残されるかたちになる。手を中途半端に持ち上げて振り返し、帰りかけたところで、疾風の言葉が反響した。  それって何か変じゃね?オンナノコみたい。  胸の内に説明のつかない感情が湧き起こる。苛立ちでも、怒りでも、悲しみでもないそれは、心に消えないシミをつくった。  だがそういう感情が湧き起こるのも、暁自身が感じていたことを言い当てられたからではないのか。そう思うと、余計に息が詰まるような気がした。  帰ろうとする気持ちが(しぼ)み、傍にあったブランコに座る。いつまでもこうしていたら、間違いなく父の龍巳が迎えに来るだろう。そして、叱りつけてくるだろうか。  龍巳は普段はとてつもなく優しい父親だが、帰宅が遅かったり、少しでも約束を破ったりすると、とんでもなく怖くなる。殴ったり、暴言を吐かれたりとかそういうことではない。ただ無言で、両目を獣のようにぎらつかせながら、静かに暁の体に触れてくるのだ。  不思議と嫌悪はなかったが、触られる度に奇妙な感覚が体を這い、龍巳によって体を作り変えられていくような気がして、その恐怖と闘いながら、嵐が過ぎ去るのを待った。  オンナノコみたい、という疾風の言葉がいつまでも頭の中に響いている。反論できなかった。その通りな気がした。  俺は、本当はオンナノコなのかもしれない。  その考えに至った時、一瞬脳内に何かの光景が浮かんだ。暁の声を呼ぶ、誰かの声。その誰かが暁に手を伸ばし、そっと抱き上げようとしている。龍巳ではない。それだけは確かだ。 「だ、れ……?」  頭の中に存在する相手に問いかけても、返事があるわけがない。だが、その相手は口を開き、何かを答えようとしてきて。 「暁!」  耳に飛び込んできた声で現実に引き戻される。顔を上げずとも声の主が誰だか瞬時に理解したが、まるで見知らぬ人から呼ばれたような奇妙な違和感を抱いた。 「お……と、うさ……」  見上げた先に、父親というよりは年の離れた兄といっても通用しそうな男が、息を切らしながら立っていた。  龍巳が近付いてきて暁を抱き上げてくるのに身を任せながら、そういえば、と思う。  そういえば、周りの人間にはよく、「暁ってお父さんにあんまり似てないな」と言われるなあと。 「ねぇ、お父さ……っ」  龍巳に何を確かめようとしたのかは、自分でもよく分からない。何か重要なことだった気がした。  だが、尋ねようとする暁を黙らせるように、龍巳は暁の体に触れてきた。  やめて、という言葉が薄っすらと浮かびかけたが、触られる度に、あっという間に消え去り、代わりに変な声が自分の口から出始めた。  自宅に着いた時にはわけが分からなくなっていて、ベッドの上に寝転され、上から覆い被さってこられても声の一つ上げず、されるがままだった。  それが最初の瞬間だったのだが、今でも不思議に思うことがある。  いくら誰にとっても初めての相手が特別とはいえ、肉親相手には普通、もっと違う感情を抱くのではないかと。妙なことに、暁は未だに、父に縛られていながらも、そういうことをしている時は気持ちがいい以外の感情は湧いてこないのだ。  ただ、世間に対する後ろめたさや、相手が父親だという息苦しさがあるだけで。  そして、何よりも。龍巳が暁を抱く時に見る目だ。最初からずっと、まるで痛ましいものを見るように暁を見ていた。  あの目の意味を聞くまでは。  そうやって過去に思いを馳せているうちに、いつの間にか実家に来ていた。
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