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時折ふらふらとキノコに引き寄せられる歩美を制しつつ、僕達が山小屋に辿りついたのは丁度正午になった頃のことだった。
「山小屋!ごはん!休む!!」
「はいはい」
果たしてご飯はあるんだろうか。山の頂上の広場は、僕が想像していたものよりずっと簡素な風景だった。小さな屋台の一つでもあるのかと思いきや、ボロボロの休憩小屋が一つと、お昼ごはんを食べるのに最適なベンチとお茶の自販機があるのみである。もしサンドイッチやおにぎりを残していたらそれで十分だったのだろうが、今は完全にすっからかんの状況だ。
平日に有給を取って山登りに来ていたので、人影は非常にまばらである。山小屋の管理人さんらしきおじさんと、同じく登山客と思しき年配の夫婦が一組いるのみだ。管理人さんに“近くに食糧が買えるお店とかありませんか”と尋ねると、おじさんは困ったように首を振った。
「んー、もう一つの登山コースにはあるんだけど、こっちにはねえ」
「うえ、ほんとですか」
「そうさね。だからこっちの道を登る人は決まって麓でお弁当買って来たり、作ってきたりするんだよ。お前さんたち持ってこなかったのかい?準備は念入りにしないとダメだよ~」
「う、うえええ……」
いや、準備してたんですけど、嫁が全部喰っちゃったんです――とは言えない。テーブルや椅子はあるし、ひとまず休むことはできそうだ。お店がないことに気づいてからというもの、歩美はずっとむっつりと黙りこんでいる。おなかすいた、さえ言わなくなったのはかなり危ないサインだ。ほっとくとまたキノコでも採りに行きかねない。
はてさて、どうしたものか。もう一つの登山道、とやらの店の場所を聴いた後、僕はぐったりと椅子に座っている歩美に声をかけた。彼女の具合が悪いのが見て取れるせいか、居合わせた登山客の老夫婦がちらちらとこちらを気にしてくれている。心配かけてすみません、ただおなかすいてるだけなんですこの人、とは心の中だけで。
「歩美ー。もうちょっと我慢してくれな。ちょっと離れてるけど、もう一つの登山道の方にお弁当売ってる店があるんだって。そっちで買ってくるからさ」
「…………」
「間違っても、キノコ採りに行ったりするなよ?いい?キノコ、ダメ、ゼッタイ。我慢できる?」
「うう……きのこ、がまん、するう……」
「はいはい」
それが言えているだけ、最低限の理性は残っているのだろう。僕は自販機で飲み物だけ買い足すと、よし、と気合を入れ直した。まだ体力は残っている。ちょっと速足で行って、さっさと戻ってくることにしよう。
「奥さんにお弁当買ってきてあげるのかい?いい旦那さんねえ」
登山客のおばあさんが、にこにこと笑いながら言った。
「うちの人にも見習ってほしいもんだよ。この人ったら、未だにあたしのこと召使か何かと勘違いしてるんだから」
「ちょっと、おかあちゃーん?」
「あたしはあんたのお母ちゃんじゃありません、こんなでっかい子供を持った覚えはありませんからね」
「あはは」
何年過ぎても仲睦まじいというのはいいことだ。熟練夫婦のやり取りに、思わず僕の顔もほころぶ。自分と歩美も、こんな感じで年を取っていけたらいい。くだらないやり取りで笑い合って、一緒の趣味を楽しみ続けられたら本当に最高だ。
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