牛すじカレー

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牛すじカレー

昼過ぎに起きて、昼食を求めていつもの喫茶店へ行く。 コーヒーよりもカレーの美味い店。 マスターの趣味で年代物の家具が使われる店は、アンティークな臭いとスパイシーな香り、そして時々香ばしい香りが入り混じった妙に臭いがする。 その香りが妙に落ち着くので毎日、通っている。 しがない小説家は、とにかく締め切りに追われ暇がない。 指定席と化しているカウンターの隅でパソコンを開いた。 マスターに、牛すじカレーとだけ言えば苦笑いで用意してくれる。 マスターの飲み込んだ言葉は分かるつもりだ。 でもコーヒーは、明け方まで散々飲んだのだ。 こちらの事情も察してほしい。 立ち上がったパソコンを目の前にのすると、明け方まで書いていた原稿の続きが鮮明に思い出される。 睡眠をとったことで頭の回転も多少良くなり、物語に入り込むのにもそう時間はかからなかった。 そうなると、周囲の音はほとんど拾えなくなる。 マスターも気を使って、出来上がったカレーを無言でパソコンの隣に置くようになった。 カレーは良い。 音が遮断された世界でも香りだけで、出来上がったことを知らせてくれる。 特に牛すじカレーは、歯が要らず、ルーに肉の旨味が溶け込み、舌で潰せばシルクのように身が解れる。 作業中でも食べられて、なにより美味い。 これが牛すじカレーの良さだ。 この店のピリリと口に残る控えめな辛さは、小説の世界に入る邪魔にならなくて一層良い。 夢の世界に入るために、現実の世界は最低限で済ます自分にとって、この牛すじカレーは夢に飲み込まれないための砦の一つであった。 そういえば、もう一つの砦の一つである数少ない友人に飲み誘われた。 ぼんやり隅に座っていたら、夢みたいに可愛い女の子が自分を気に入ってくれたようだった。 始めは信じられなくて、とうとう現実に戻れなくなるところまでいったのかと思ったが、時折くるスマホの連絡を見て、現実だと思い知った。 写真で送られた彼女の作ったカレーは、牛すじカレーとは違い、赤いトマトの色に染まったカレーだった。 食べてみたいなと思っているところに、今度ご馳走してくれるとの返事を貰って、今度こそ夢かと思った。 彼女に牛すじカレーをご馳走する日も、そう遠くはない気がする。 たまたま店に立ち寄った友人にそう言えば、たまには違う店のカレーも食べても良いと助言された。 その意図は分からなかったが、機会があればそれも良いと思えた。 その矢先に、彼女から美味しい牛すじカレーの店の話を聞けたのだから、現実もなかなか悪くない。 店が閉店するまで、喫茶には居座る。 帰るときには、お隣やお向かいから夕飯の匂いが漏れて、カレーの匂いがする時は妙に仲間意識を感じる。 マンションのエレベーターにある場所から、真っ直ぐ奥に位置する自分の部屋を目指す。 途中でカレーの匂いを数回感じて、思わず笑みが溢れる。 普通の人とは生活リズムが違いすぎて、どんな人が住んでいるかは知らない。 でも同じ階に住む人間が皆、カレーを食べてると思うと笑えた。 ここ最近、毎日カレーの匂いが漏れている部屋があるから、きっとその人のせいで皆、知らず知らずのうちにカレーに引き寄せられているのだろう。 カレーに混じって、トマトの酸味が香る。 ふとあの子の顔が思い浮かんで、ニヤリとしてしまった。
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