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レトルトカレー
若かった頃に流行った小説を読み返していると、ピーピーと台所から耳障りな機械音がした。
使用した本人は、まるで気付いていない。
熱心に、縫い物に勤しんでいる。
彼女が気付くとも思えなかったので、私は自分で中身を取り出すことにした。
レンジに近付けば、甘酸っぱいレトルトカレーの匂いが漏れていた。
レンジの扉を開ければ、中で溜め込んでいた香りが部屋中に広がった。
その独特の香りで、妻はやっとほったらかしにされた昼食の存在を思い出した。
「あらあら。ごめんなさい。つい夢中になっちゃって。今、用意しますね」
妻は、縫いかけの布地をテーブルに置き、手を付いてゆっくり立ち上がる。
炊きたてのご飯を皿に盛ると、パウチを開けた。
福神漬けを添え、食器棚からスプーンを出して「さあ、召し上がってください」と一人分だけテーブルに用意した。
自分の分は後回しに、家族の分の食事を用意する妻は、よく出来た嫁だと若い頃から言われたが、自分にはそれが少し寂しかった。
台所の勝手も分からず、妻の食事が用意されるまで待っていたりもした。
読んでいた小説の娘も、そんなことを周りに求められていたのを思い出す。
しかし、今は時代が違う。
妻が自分の分のご飯を皿に盛ったあと、私はパウチを開けてルーを注ぎ込んだ。
妻がやったように福神漬けを盛り付けて、スプーンを出してやる。
ゆっくり椅子を引き「さあ、召し上がれ」と皺の増えた妻の手を取った。
妻は、笑いながらエプロンをちょっと摘んでお辞儀をして「ありがとうございますわ」と冗談めかして椅子に座った。
昔は男が台所に立つと、おかしな目で見られたが、今はそうではないらしい。
それを聞いたのは、週に三度家を訪ねる訪問介護のヘルパーさんからだ。
孫と同じくらい若い彼女からは、今まで聞いたことのない話をよく聞く。
男子も厨房に入るべきだという考えもそうだが、レトルト食品が大変美味しいこと、今は簡単に調理を済ますことは恥ずべきことではないということ。
しかしこれだけ考え方は変われど、人の恋愛は変わらないということは分かった。
彼女の友人達の恋愛話は、聞くだけでやきもきするもので、陰ながらキューピッドになる彼女の苦労が伺えたからだ。
そんな彼女の強力な助っ人が、レトルト食品であるらしい。
そんな話を聞いてから、私も妻も自然とレトルト食品を使用するようになった。
互いに時間が余り、手にも顔にも皺が増えた年だというのに、趣味が増えた。
なにより、私にも妻へ食事を用意してやれる。
数あるレトルトカレーのなかでも、昔なじみの甘酸っぱいカレーは、若い頃の日を思い出させる味だった。
カレーを食べながら、あの時の流行った小説の一節を真似ると、妻も続きを返してくる。
食事を終えて
「私も久しぶりに読み返してみましょうか」
と言うので読んでいた小説を閉じて渡した。
それは、初めてのデートで彼女に貸した小説と同じものだった。
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