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キーマカレー
エレベーターに乗り込むと、カレー臭いがした。
条件反射で、つい自分の服の匂いを嗅いでしまう。
犬のように鼻をきかせるたら、染み付いたスパイスの香りが繊維の奥からかぎとれた。
だが、エレベーターに残っている匂いとは違うかった。
俺は安心してエレベーターを降りた。
夜も遅いというのに、ここの階は賑やかだと思う。
エレベーターに一番近い部屋の家族は、母親が子供達に早く寝ろと怒号を響かせているし、その隣の部屋からは、テレビに話しかけている声がする。
俺の向いの部屋からは、「ギャー、焦げた」と女の悲鳴とスパイスの焦げた臭いがし、一番奥の部屋からは、男の「なんも浮かばねぇ」というこちらも叫び声が聞こえた。
日々、これだけ煩いのに俺の隣に住む老夫婦は文句どころか、毎日賑やかで自分の子ども達が小さかった頃を思い出すと穏やかに話していた。
すごくポジティブだなと感心する。
とはいえ、俺も人のことは言えない。
なぜなら、今から友人を呼んで酒盛りをするつもりだからだ。
友人に連絡をしたら、すぐに返事は帰ってきて今行くから鍵を開けといてほしいという連絡がきた。
支持どおり鍵を掛けずに手を洗っていると、さっそく玄関のドアが開く音がした。
「よお!」と気軽な声がして、俺も同じように返し、大声でテレビに話しかけるなといの一番に小言を言った。
ソイツは苦笑いしながら、いいじゃないかと軽口を叩き、持参したビール缶を開ける。
そして、なんの了承もなく俺が持って帰ったビニール袋に手を突っ込む。
中身を見て少し残念そうにしながら
「俺、今日の夜ココナッツカレーだったんだけど」と唇を尖らせた。
そして
「お前のツマミ、いつもカレーだよな」
と不満げに食べ始めた。
文句があるなら食うなと言いたいところだが、多すぎる量のカレーを消費するには気心のしれた友人が不可欠で、コイツの機嫌を損ねないように肩をすくめるに留まった。
俺も冷凍庫のナンをレンジで温め、バイト先のインドカレー屋で貰ったキーマカレーにつけて食べた。
ちょっと刺激の強い濃い味の挽き肉たっぷりなカレーは、もちもちとしたナンにピッタリ合うし、ビールにも合う。
美味いけれど、かぎ慣れた臭いに少しうんざりもしていた。
愚痴のように吐き出せば、目の前の男は断ればいいと、ビールをあおりながら言うのだ。
そうは言っても、俺には好意を無下に出来ない理由も、それなりにある。
国に置いてきた息子にソックリなんだとか、育った村のしきたりだとか、行き倒れていた時に優しくしてくれた日本人に感謝をしているとか。
よく分からないインドジョークで持たせられるということもある。
このどれもが嘘であることが分かったのは、店を経営する夫婦の息子が産まれも育ちも日本で、俺の聞いたことは嘘だと種明かしをしてくれたからだ。
インド人店主が、しごく真面目な顔で渡してくるので、嘘だと分かっていても断れない。
友人は、俺の断れない話を聞くとガハハと大口開けて笑う。
「愛されてるってことだな」
その声はひどく煩い。
でも、愛されているという響きは悪くないかもなと、キーマカレーを口に含んだ。
刺すような痛みが舌に走る。
でも、奥深いところにある旨味に中毒性を感じた。
服に染み込んだスパイスの香りも、気にならなくなる。
それどころか、スンと服の繊維に絡みつく臭いが口に広がる旨味に変わり、店のカレーを食べずにはいられないようになった。
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