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どぷん・・・、船から勢いよく投げ出された酒樽は夜の海に飲み込まれた。ほどなくして器は弾け、海面にラム酒のきついアルコール臭が広がる。
「あはははは!ほんっと、人間ってかわいそーなイキモノだよね!」
海から顔を出し景気よく笑う友人を見て、セレナはため息をついた。
「・・・あまり人間に近付きすぎると危ないですよ」
セレナは、家族に珊瑚のようだと言われる温かい桃色のウェーブがかった髪をかき上げて、友人と同じように海面に顔を出す。
「大丈夫だって、セレナは心配性だなぁ。ほら見て?」
友人が指さした方向には目の前で立ち往生する大きなガレオン船、その船体から姿を覗かせる男達が次から次へと酒樽を海に投げ込んでいる。商船で働く船乗りや商人が長旅の間唯一楽しみにしている自分たちが飲むためのラム酒樽も、祖国の大富豪に依頼された一樽で金貨二十枚は下らないような高級な酒の入った樽も、どれもこれも構わず海に投げ捨てる。
「ねぇセレナ、知ってる?あの入れ物にいつも入っている近寄るとクラクラする液体、人間にとって凄く大事な飲み物なんだって。クジラよりもずっと巨大なこの船はあの樽を運ぶためにすっごく遠い地方まで行って帰ってきたところなの」
セレナは酒樽が人間にとってどれだけ大事なモノなのかは興味が無かったが、一生懸命運んだものを海に捨てている人間たちを見て同情した。
「それをさ、価値も知らない、全然欲しいとも思っていない私に全部奪われちゃうなんて素敵だと思わない?これなら悪い奴に根こそぎ奪われちゃった方がまだ納得できるかもね!」
「リーネは何故そんな酷い事をするのですか?」
男達を狂わせた張本人である悪女の名前はリーネといった。彼女は夜の海に溶けてしまいそうなほど深い藍色の髪を持つ少女だ。セレナが明るく穏やかな印象を与える空色の瞳と垂れ目が特徴的なのに対して、リーネは鋭く意地の悪そうな目つきと暗い赤色の瞳が印象的だ。外見も価値観も反する二人は古くからの付き合いで、一番の親友と言える存在だ。
彼女達は人魚と呼ばれる種族だ。その呼び方を最初に決めたのは人間だが、人間の文化に興味津々の人魚たちはいつしか自分達をそう呼ぶことにした。上半身は人間によく似た見た目をしていて、顔だけ見れば耳のかわりに魚の鰓のようなものがついている以外は人と同じ。下半身は鱗と尾びれが付いており、足を持たない代わりに海中を自由に泳ぐことができる。
「そんなの、私の歌声が素晴らしいって証明できるからに決まってるじゃない」
色気たっぷりに返ってきたのは予想通りの回答。
人魚の男は尾びれが大きく、泳ぎがパワフルで素早い程優秀とされている。対して人魚の女性は、その歌声がどれだけ美しく、妖艶で、魅了する力があるかで種族内での優劣が決まる。女性の人魚の歌声には人間を惑わせる不思議な力があり、どれだけ多くの人間を歌声で魅了することができたかをステータスとするのが古くから人魚女子の基準である。
セレナは人間からすれば相当な美少女と言える整った顔をしており、上半身だけでも男の視線を釘付けにしてしまいそうなほどの理想的なスタイルを持っている。しかし、声が小さく、人間の前で歌ったことのないセレナは種族の間では変わり者の劣等生として扱われてしまう。若い人魚程自分達のランク付けをしたがる傾向にある為、同年代で人間を惑わしたことのない人魚はセレナくらいだった。
「おい!何をやってるんだ!」
「ああっ!俺の酒が!!」
「もう半分も残ってないじゃねぇか!どうしてくれるんだ!」
船の上が騒がしくなり始めたところで、どちらが合図することもなく二人は安全な海に潜っていった。
「見たぁ?あのひげ面の間抜け面」
「すごく怒っていましたね」
「ホント、歌声一つで操られちゃうなんて人間って弱くて可哀そうなイキモノ」
ぐいぐいと深海へと潜っていくと、段々上半身部分が冷えてくる。セレナは魚よりも海に適さず人間のように陸で生活できない人魚のほうこそ可哀そうな生き物だと思っていた。
*
「ふぅ、いっぱい歌ったから疲れちゃった」
人魚たちの居住層まで潜れば人間部分も凍える心配はない。リーネは岩場に腰掛けてのんびりと長くてもちもちとした食感の主食用海藻を食べ始める。
「でも残念、今回も半分くらいまでしか効かなかったみたい」
「それでもリーネは凄いですよ」
人魚の歌声は万能なわけではない。より多くの人間を操ったり、心からしたくないと思う事をやらせる事は難しく有効時間も短い。本人は不満気だが、大きなガレオン船の乗組員ほぼ全員を一度に操り大切な酒樽を海に捨てさせたリーネの歌声は大人の人魚にも匹敵するほどの実力と言える。
「もっと凄くなりたいの。例えば、海に身を投げちゃうくらいに魅力的な歌声とか」
「そんなことしたら可哀そうです」
「セレナは頭が固いなぁ。人間なんてたくさんいるんだし、ちょっとくらい死んでもいいじゃない?」
「そうかもしれないけど・・・」
人魚たちにとって歌声で人間を自殺させるという事は大きな評価基準だった。他の種族が思わず身を投げてしまうほどに魅力的な存在であり、同じ女性人魚からも一目置かれるエリートの印になる。いくら上半身が似ているからとはいえ完全に異なる種族の人間、住む場所も話す言葉も違う生き物に対して同情心を抱くセレナは人魚の中では良く言えば慈悲深く悪く言えば偏った偽善者、どちらにせよ少数派だ。
「人間と言えばさ、人魚姫の話知ってる?」
手に取った海藻を食べ終えたリーネは、今度は赤紫色で長細く枝分かれした別の海藻を手に取る。のど越しが良くしゃきしゃきとした食感がスナック的なので、彼女はこの赤紫の海藻をよくサラダや間食として食べている。
「人間に恋をする人魚の話ですよね、もちろん知っています」
人魚姫の童話は人間が作った物語だが古くから人魚の間でも知名度が高い。しかし、リーネ達にとってそれは切ない恋物語ではない。人間と人魚の交流が多少行われていた二百年程前は種族間の叶わぬ恋に心をときめかせた人魚の女子も多かったが、人間は一方的に弄ぶものとであるという考えが根付いた昨今の若い人魚にとっては、異種族に一目ぼれするという異常性癖人魚のコメディ作品として面白おかしく語り継がれている。
つまり、人魚と人間の禁断の恋というのは、今の人魚にとってはゴシップなのだ。
「私のお姉ちゃんが友達から聞いたらしいんだけど、実際に人間に惚れた人魚が過去にいたらしいよ!しかも何人も!」
「えぇっ、そんな・・・信じられません」
「でもでも、同じような噂が結構広まってるんだって。人魚姫は実話なんじゃないかって考えている人もいるんだよ」
「噂に足がついただけではないですか?人間は基本的に泳げませんし、尾びれもありませんから普通に考えて一目惚れなんておかしいです」
人魚の女性が一目惚れするなら泳ぎ姿か凛々しい尾びれと相場が決まっている。さらに彼女達の最低限求める『泳げる』は世界一の水泳選手が死ぬ気で頑張ってやっとスタートラインに立てるかどうかのレベルだ。
何かの不思議な力で会話が出来れば性格を好きになる可能性がゼロではないが、童話人魚姫のように一目見ただけで恋に落ちる理由がセレナには思い当たらない。マネキンや猿に一目惚れする人間が変わり者であるように、人魚にとっても人間への特別な感情は抱くと思えないものだった。
「セレナは恋愛したことないじゃん。きっと泳げなくてもこの人が好き!ってなるくらい何か特別な運命を感じるんだよ、たぶん!」
噂話の類に興味が無いセレナは興奮気味にゴシップ話をするリーネとの温度差に段々飽きてしまい、思わず正論をぶつけたくなった。
「もし人間の男性を好きになったなら、人間になんてならずとも歌声で魅了してしまえば良いのでは?恋が叶わずに泡となって消えるなんて、やっぱりあり得ない話です」
歌声はそもそも魅了と誘惑の力を根源として相手を操る力、自殺や酒樽を捨てるよりも簡単そうだとセレナは考えた。もちろん、そのような経験は無い。
「それがね、好きな人は人魚の歌声の力で操れないらしいんだよ!」
「・・・・・・」
あまりのご都合主義な話にますますうんざりしてしまう。
「面白いでしょ?もしそんなヤバい人魚がいたら笑っちゃうね。なんならその人魚の好きな人を魅了しちゃったりして」
冗談半分にけらけらと笑うリーネの笑い声は歌声と違ってあまり上品ではなかった。
異種族との恋愛話で盛り上がり、それを茶化そうというリーネや同世代の女子の考え方をあまりよく思わないセレナは、もし知り合いが本気で人間やウツボやホタテ貝に恋をしたら自分だけは応援してあげたいと思った。
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