新緑の瞳

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こんばんは。今夜泊まりたいのですが、一部屋空いていますか? ええ、そうです。私一人です。  ああ、そうですか。よかった。お世話になります。 こんなに温かい部屋の中で眠ることができるなんて、何日ぶりでしょうか。今日も野宿になるかと諦めていたところです。宿が見つかって本当によかった。  そうです。ちょっと旅をしていまして……、あるひとを探しています。大切なひとです。  いいえ。家族でも、恋人でもありません。けれど、私にとっては、とてもとても、大切なひとです。  え? ……貴方も奇特な方ですね。ええ、もちろん。泊めていただけるのですから、そのくらいのことでよければ喜んで。私もちょうど、誰かにお話をしたかったところです。  ああ、スープをいただけるんですか? ありがとうございます。……とても美味しいですね。  そうですね、では、どこからお話を始めましょうか。実は、私はあの方のお名前も、年齢も、知らないのです。  私が知っているのは、とても臆病で、寂しがりで、美しくて、優しい方だということ。それだけです。けれど、それで充分でしょう?  あの方は、綺麗な緑色の瞳をお持ちでした。  ええ、珍しいでしょう? この国では、茶か灰色の目の人ばかりですからね。私も緑色の目を持つひとに会ったのは、あの方が初めてでした。  ……ええ、そうなんです。私の唯一の自慢です。でも、あの方の瞳の方が、もっともっと美しいのですよ。  まるで柔らかい若葉のように瑞々しくて、吸い込まれてしまいそうなくらい澄んでいるのに、とても深い緑色をしているのです。  こんな陳腐な言葉では追いつかないくらい、本当に美しい瞳なんですよ。  初めてお会いしたとき、私はその美しさに見とれてしまい、しばらくの間口がきけませんでした。あの方に困ったように首を傾げられて、慌てて挨拶をしたことをよく覚えています。  あの方は、母が連れてきた新しいお医者様だったんですよ。  いえ、実際にはきちんとしたお医者様ではなかったようなんですが……。あの方は、自分は医者ではないと言っていましたから。一体どういう経緯であの方がお医者様として、我が家に来ることになったのかは知りません。  あの方のことを、私は先生と呼んでいました。  ああ、実は私、昔は身体が弱かったのです。そうは見えないでしょう?   ……あの方が治してくださったのです。  生まれつき心臓の病気で、以前は立ち上がることもままならない生活を送っていたのですよ。私が生まれたとき、二十歳まではとても生きられないだろうと医者に宣言されたそうです。  けれど、どういうわけか。そうですね、もしかしたら、放っておいてもそのうち勝手にくたばるだろうと思われていたのかもしれません。幸運なことに、死神の手が届く前、二十歳になる直前に、私は先生に出会いました。  先生は、指の先まで綺麗で、私は酷く緊張しました。  毎日身体を拭いてもらってはいましたが、汚らしく見えたらどうしようかと。臭いと思われたら。寝癖がついていたら。先生の美しい目に、自分がどう映っているのかだけが、酷く気になりました。  ああ、すみません。話が逸れてしまいましたね。  私が今動いているのは、先生のおかげなんです。  ……はい、そうですね。一目惚れというのでしょうか。何しろ初めてでして、私は自分のこの感情を何と言えばいいのか、よくわからないのです。  先生の緑色の美しい目が少し細められるのを見るだけで、私の心臓は高鳴りました。いつもよりもよく動きました。  先生は、とても静かな方でした。いつもゆっくりとした口調で話をされました。いろいろな国を旅してきたそうで、北の氷の国や一面砂ばかりの国、たくさんの国の話をしてくださいました。  先生は、それまで窓からの景色しか知らなかった私に、いろいろな世界の話をしてくださいました。私の世界は、先生に会って広がりました。  ええ、そうですね。今もです。先生を探す旅に出て、ますます私の世界は広がりました。世界がこんなに美しいなんて、私は先生に出会うまで知りませんでした。  ……正直な話、私は先生に会うまで、いつ死んでも構わないと思っていたんですよ。  ありがたいことに私の生まれた家は、それなりの資産家だったものですから、お金だけはありました。……ああ、今はもう没落してしまったのですがね。  来る日も来る日も、毎日毎日、同じような薬を飲んで。入れ代わり立ち代わり、違うお医者様を呼んで。それでも身体は一向によくなりませんでした。熱が出て、お医者様に診てもらって薬を飲んで。毎日がその繰り返しでした。  自分の部屋から出ることもままならない私には、友人と呼べる存在など一人もいませんでした。毎日孤独で、寂しくて……。  私は生きることに苦痛を感じていました。  母が必至で手を尽くそうとしてくれていたのはわかっていたのですが、私にとってはどうでもいいことでした。私には生きる気力など少しもなかったのです。  治る見込みもない身体で、ずっと生きていくのは辛い、と。いつ死んでもいい、と。  本当に、そう思っていました。  けれど、先生に出会って、私は生きたいと思うようになりました。  ……このスープは本当に美味しいですね。身体に染み渡るような心地がします。  ええ、先生の話に戻りましょうか。  先生は、とても自然に愛されていました。不思議なもので、家の庭も、それまではあまり綺麗だとも思えなかったのですが、先生が来られてから、見違えるように美しくなりました。  いいえ。先生が手を加えたわけではないのですよ。それなのに、枯れていた花が咲き、木々の葉の艶は増し、緑が一段と濃く、深くなったような気がしました。いえ、実際そうだったのです。  けれど、どういうわけか、美しくなった庭の緑を見ても、先生は物憂げな表情を浮かべるばかりでした。  木や花が嫌いなのか、と一度訊ねたことがあります。先生は首を振って、少し陰りのある表情で笑いました。そうだったらよかったのに、と。そう言っていました。  先生はよく私の枕元で本を読んでいらっしゃいました。私はこっそりと、その憂いのある横顔を眺めるのが好きでした。  ある日、私が寝たふりをしていたときのことです。先生の驚く顔が見てみたくて、悪戯をしようと思ったのです。結局、そんなことできなかったのですけれど。  先生は、おそらく私が起きているとは思っていなかったのでしょう。  窓から遠くを眺めながらぽつりと、森が追って来る。そう、零されました。その言葉の意味がその時の私にはちっともわかりませんでした。詳しく訊こうとしても、笑ってごまかされるばかりでした。  先生は、いつも何かに酷く怯えているようでした。まるで、何かから逃げているような……。理由を聞いても曖昧に笑われるばかりで、答えてくれたことはありませんでした。  先生は、はぐらかすのが得意な方でした。寂しそうに微笑まれてしまうと、私にはもう何も聞くことができませんでした。  先生が私の家にいらっしゃった期間は、それほど長くはありませんでした。  毎日、もう行かなければいけない、とおっしゃって、その度に私は無理を言って引き止めました。せめて誕生日までは、と。誕生日までは一緒にいてほしいと、縋りついて懇願しました。  先生は、優しい方でしたから。私の身勝手なお願いを聞いてくださいました。  ほんの十日間です。毎日が幸せでした。先生といられるだけで、私の心は満たされました。  先生が来てくださってからというもの、私の体調は見違えるようによくなりました。先生とお話をするだけで、いいえ、同じ部屋の中にいるだけで、私の呼吸は楽になりました。先生の姿が見えなくなると、呼吸が苦しくなりました。  ちょうど私が、二十歳になる日、パーティーが開かれることになりました。私は歌も、ダンスも、何一つまともにできませんでしたが、私の為に集まってくれた方々に、せめてもと思い、立ってあいさつをしました。先生は、そんな私に付き合ってくださり、微笑んでくださいました。  けれど、少し無理をし過ぎたのでしょう。その日の晩、客人たちが皆帰ってから、私は酷い熱を出しました。  それまでに出たことがないくらいの高熱でした。……自分の体調のことは自分が一番よくわかる。あなたもそうでしょう?  ……ええ、もう助からないと思いました。先生に出会って、せっかく人生に喜びを見出せたというのに。  もっと生きたいと思いました。もっと生きて、もっと先生の隣にいたいと思いました。  私は力の入らない指で先生の袖を掴みました。必死でした。殆ど声は出せませんでしたが、それでも、生きたい、と言いました。  それを聞いた先生は今にも泣きだしそうな顔で、私に謝りました。  ごめんね、ごめんねと、美しい緑を泣きそうに歪めながら、何度も謝ったのです。  私には、その言葉の意味が分かりませんでした。  熱のせいで、意識も朦朧としていましたし、もしかしたら、治せなくてごめんね、と。そういう意味なのかとぼんやりと思いました。  だんだんと霞んでいく意識の中で、泣き出しそうな先生の顔が、私に近づきました。  先生は私に口づけて、ふぅ、と息を吹き込まれました。  その瞬間の私の喜びといったら。今思い出すだけでも、胸が張り裂けそうなくらいです。言葉では言い表せません。  あんなにも生きたがっていたのに、その瞬間は本当に死んでしまってもいいと思いました。不思議でしょう?  けれど、同時に苦しかった。先生のあんなに悲しそうな顔を見るのが辛かった。今も、私の目に焼きついたかのように、離れないのです。  私は先生の顔を見ていることができなくなって、目を閉じました。先生は私の耳元で小さく、お別れだ、と言いました。そこで私の意識は一度途切れました。  次に私が目を覚ましたとき、既に先生の姿はなくなっていました。  以前は鉛のようだった私の身体は、まるで羽が生えたように軽くなっていました。時折あった心臓の痛みも、咳も、熱も、一切の苦痛が私の身体からは消え去っていました。  それまでベッドからろくに降りたことがなかった私が、歩き回ることのできなかった私が、今こんな風に旅をすることができるようになったのです。  先生が、命を分け与えてくださったんです。  ……実は、私の目は元々、あなたのような茶色の瞳だったのですよ。気がついたら、私の目は先生と似たような緑色になっていました。不思議ですよね?   ――先生は、一体何者なのかって? 私にもわかりません。  ええ、そうですね。私も昔は気になっていました。もしかしたら……。けれど、今の私にとってはそんなこと、どうでもいいのです。あの方があの方でありさえすればいい。そう思います。  ただ会いたいのです。その気持ちだけで、ずっと、長い間旅をしてきました。ここよりもずっと南から、いろいろな国を巡ってあの方を探してきました。  ……え? 出身ですか? レマンという村です。小さな村ですから、きっとご存じないでしょうね。  きっと、あの方ともうすぐ会えます。嬉しいです。  なぜわかるのかって? この近くに、私の持っている地図には描かれていない森がありましたから。きっとあの方が、以前いらっしゃったのでしょう。今はもういらっしゃらないでしょうけれど、でも確実にあの方に近づいているのです。  本当に自分でも不思議なのですが、この緑色の瞳になってから、あの方がどこにいらっしゃるのか、なんとなくわかるようになりました。この目が、あの方のところに導いてくれているようなんです。  あの方は緑に愛されていますから。  もうすぐ、会えるんです。あの、新緑の美しい瞳のあの方に。  ――ところで、このスープは本当に美味しいですね。おかわりをいただけますか? 
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