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前編
私はちっぽけな人間。でも、大切な人のために全人類を敵に回すことをいとわない。大切だから、守りたいと思うし、大切だから助けたいと思う。死は全員に訪れるものであるけれど、その死という運命を変えたかった。
「ねぇ、どうして、……どうしていつもあなたは……」
大切な人が死ぬことは嫌だった。私は大切な者のためなら、手を汚すこともいとわない。親しい間柄の人たちを傷つけることも、大切な人が傷つくことになっても、私はやめないよ。自分自身の大切な者が生きることができるなら、誤解されてもかまわない。大好きなの。生きて欲しいの。世界中の誰も私の大切な人よりは、大切にはできないの。
「もう一度やり直そう」
恐ろしいほど、暗い中での静寂。そこに立つのは、美しい一人の女性。白いドレスを身にまとい、片手に剣を持っている。変わったことといえば、彼女の周りに倒れているものは赤を身に着けていた。また、彼女自身の白い衣服も赤黒く染まっていた。彼女のもつ剣からは滴り落ちるのは赤くて、それはまだ生暖かいと思われる。
「良かったのか。これで」
突然、何もない空間から現れた存在に彼女は返事をする。
「良かったのよ。これで」
彼女の頬に流れるのは透明な滴。それを拭うことなくそのまま放置しているために、地面にポタポタと落ちていく。頬に付着している赤い血もその涙で少しほど流れていた。
「人間は怖いな。自分の大切な者が生き残るためなら、幸せに暮らしている人の生活を壊すし、自分の命を引き換えにすることもある」
「まるで、人間が欲深いって言いたいみたい」
「俺はそう言っているんだよ。ははは、そんな弱々しそうに笑ってどうした? 人を殺め、自分の罪の重さから逃げたくなったのか?」
私の様子が酷く滑稽なのか愉しげに笑っている。私が罪深い行いをしているのは、残酷なほど性格の悪い男が原因の一端である。この男が私の大切な者を連れ去ろうとしていた。暗い深淵の中に引きずり込んで、もう二度と還ってこないように。私はそれが現実にならなくて良かったと思う。大勢の人間の生きる権利を不条理にも奪っているのに、私は大切な人がいなくなることの方が恐ろしく怖い。このような事を少なからず思っている私は、早速壊れているのかもしれない。
「神だって欲深いじゃない。この狂気の沙汰を提案したのはお前だ。神のくせに、自分が楽しければなんでもいいという思考が腐ってる! 自分の楽しみのためなら、何もかも犠牲にできる狂神めっ!!」
憎たらしい笑みを浮かべるこの男神に我慢ならず嫌味を言った。それなのに、なお笑みを浮かべているこの神は頭のネジが外れているのだろう。
「お前は自分のことを棚に上げて神を罵倒するんだな。でも、お前だって立派な狂人だろ」
私もこいつと同じようなことをしているから、人のことを得る立場ではないといいたいのだろう。まったくもって嬉しくない。喜ぶものはいないと思うが。無駄に反応するとこの神を喜ばせるだけなので、あえて何も言わなかった。
「ねぇ、神。約束は守りなさいよ」
「約束って?」
何のことかわからないというように平気で笑顔を向けてくるこの神が忌々しい。今、この場で剣を突き立ててやりたくなる。
「物騒なことを考えているな。神殺しはやめておけ。その罪で一生暗闇の牢獄の中をさまよい続けるぞ。覚悟があるならやるといい」
「……もし私がそれでもやると言ったら?」
「好きにするといいさ。次の世に生まれ変わることができず、出口のない暗闇の中で一生を過ごすことができるならな」
ニヤリと笑みを浮かべた男神。私はギロリと睨みつける。
「暗闇にさまよい続けることは、面白そうだけど、あんたを殺したら私の大切なあの人はどうなるの?」
「死ぬに決まっているだろう」
「じゃあ、殺すわけにはいかないね」
男神から目を逸らし、私は積み上げられた屍の上に座った。ぼんやりと空を眺める。真っ黒に染まっていて不気味だった。
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