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萌奈は、幸せな姿が羨ましくて、と続けようとしたが、スーツの男性は鼻から息を抜いた。
「……純粋に料理を楽しみに来てるのに、出会いをただの食堂に求められても迷惑なんだよなぁ。あなたも美味しいご飯屋で手軽に恋愛できる人を探しに来たんでしょう? 先週来た女もそんな感じだったんですよ。婚活と食事を一緒にしようと手を抜くから、上手くいくはずないって説教してやりました」
図星だが、今日顔を合わせたばかりの赤の他人にそこまで言われる筋合いはない。萌奈は怒りを落ち着かせるように深呼吸をする。
「……伊東さん、その件についてはお話しましたよね?」
店主が不機嫌な声でスーツの男性を見た。
「……あ、いや、その。僕は自分の気に入ってる場所を不純な気持ちで来て欲しくなくて……」
体裁を崩しながらも主張を止めない。店主は注文された定食をゆっくりとカウンターに出した。
「どういった理由であれ、俺にとってお二人は大事なお客様です。空腹を満たすことが主な理由であろうと、店で出会い求めることが理由であろうと、ただ立ち寄っただけの偶然であろうと、全ては“縁”です。それにとやかく言われると、困ります」
「あ、……そうです、よね、すみません」
「分かって頂けたのなら嬉しいです。では、ごゆっくり」
湯呑みに緑茶を注ぎ、伊東の前に置くと、店主はこっそりと萌奈を見た。悪戯っぽく笑った顔は、先ほどもっと見たかったものであり、感情の波紋が大きく波打つ。
武骨に見えるけど、素敵な人。
人は見かけによらないとはまさにこのことだと、最初の印象を覆す対応に和んでいると、頼んだ塩肉じゃが御膳がカウンターに乗った。
萌奈はいそいそと手を合わせ、箸を持った。じゃがいもがほろっと溶けるよう口の中で崩れ、深くしみた出汁の味に、なぜか母の顔が浮かんだ。郷愁を誘うような懐かしい味わいに安堵のため息が出た。
ひとつひとつ丁寧に口に運んだつもりだったが、御膳はあっという間に綺麗になった。
メインの塩肉じゃが、しじみのすましと小皿の柴漬け、茶碗の白米、きゅうりとふわふわ千切りキャベツを平らげ、夜の定食にしては六百円という破格の値段に手を合わせる。
食べることにすっかりと集中しており、気づけば店内は客で賑わっていた。
「夢中で食べてしまいました」
隣のスーツ男はバツが悪そうに萌奈を見ている。
「あの、……先ほどは、食事の前に嫌なことを言って申し訳なかった。実は、……その、先週、ここに来ていた女の人とあなたを混同してしまいました。彼女に気軽に声をかけて、その、……振られてしまいまして……」
「……いえ」
正直、負の感情を向けられ驚いたが、店主が庇ってくれた為、そこまで深く捉えずに済んだ。それに萌奈が結婚を焦っているのは事実だ。祖母のことがあるとはいえ、事情を話さない限り、出会ったばかりの人の気持ちを深く汲み取ることは難しいだろう。
「いえ、気にしないでください。……ご飯美味しかったですね。あなたが食事を純粋に楽しめっていった気持ちが分かりました」
スーツの男性は、そうですか、そこを分かっていただけましたか、と何度も頷き、萌奈の伝票を持とうとカウンターに手を伸ばした。
「ここは僕が奢ります。嫌な気持ちにさせてしまったお詫びをさせてください」
「それはさすがに……、初対面の方に申し訳ないです」
いやそれでは僕の気が済みません、いえ私こそ、と二人でやり取りをしていると店主が薄く笑った。
「……ここはもう奢られたらどうですか? 」
萌奈はその笑顔に、思わず頷いてしまった。
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