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火をつけた時のことは、実はあまりよく覚えていない。
特に苦もなく油と火種を用意することができ、特に苦もなくさっさとその家に火を放つことができたからかもしれない。
ガタガが指定した家は、髪の毛が赤くない数人の人が住む場所にあった。あの家はいつも、悪いことをした人が連れていかれる場所だ。
あたしは他の子供よりも少しだけ丈夫で、手が震えたりモノを落としたりすることが少なかったから、火や燃料の扱いを任されることもあった。
だからあたしはランプ用の油の保管場所まで迷いなく走れたし、火打ち石の使い方だって教えてもらう必要はなかった。燃え盛る炎からどのくらい離れておけば安全か、なんてこともなんとなく知っていた。
夜空を照らしながら燃える家に、どんどん人が集まってくる。叫んだり走ったりする人もいたけど、だいたいの大人はただぼんやりと立っているだけだった。
そういえば大人が怒鳴っているところはよく見るけど、泣いたり慌てたり騒いだりしているところを見ることはなかった。きっとあの村は閉じすぎていて、皆が狼狽し一丸となって対処するような危機などほとんどなかったのだろう。
その混乱の中、燃えている家の二軒隣に忍び込み、鍵の束を盗むことも、簡単な作業でしかない。
あたしはよく、この家の掃除をさせられるから、裏の勝手口の扉が壊れていることも、一階の奥の部屋に鍵が保管かれていることも、当たり前のように知っていたのだから。
今思えば、わりとなんでもできる子供だった。でもあたしは生きるためのほとんどの動作をこなせても、生きるための知恵や意識というものがなかった。
だからこの時は、柔らかい声のカミサマに言われたまま、言われた事だけをやった。ただ、それだけだ。
火をランプと竈以外に放つと、あんなに勢いよく燃えてしまうのか。
家が燃えると、こんなにひどい臭いがするのか。
動揺した大人たちは、普段怒号を飛ばしている農作業中よりずっと間抜けで、あたしのたいして速くもない足でもさっさと東の端の小屋まで逃げることができた。
ガタガは褒めてはくれなかった。
遠くの炎から身を守るように闇に隠れたガタガが声に出したのは、一言だけの礼の言葉と、謝罪の言葉だけだった。
それでもそれは、あたしが生まれて初めて受け取った『謝礼』だった。
なにもわからない子供としてではなく、働く肉でもなく、リズとして行動して受け取った謝礼だ。
ガタガは多くを語らずに、ただ逃げるようにと急かした。
逃げるように。ここからはやく立ち去るように。村を出ろとは言わない。きみに一人で山を越えろとは言わない。ただなにも知らぬふりをするために、誰の目にもとまらぬうちに寝床に戻りなにもかも忘れるように。
「私が抱えてきみを峠の向こうまで運んで行きたいのは山々だが、生憎と時間がない。きみが逃してくれた男が、カミサマを殺しにくるからね」
「……カミサマを殺すところを、最後まで見たい」
「それはおすすめしない。きみがいくら強い子供でも、少なからず傷を残すことになるだろう」
「痛いのは、慣れてる」
「身体の痛みとはまた別だ。――だが、私が止める権利はない。きみは私の手となり足となってくれた。その感謝をただの一言でイーブンとするには、私は得たものが多すぎるという自覚はある。リズ、どうしてもときみが望むなら、決して顔は出さずに、息を殺してそのシダに隠れるといい」
あたしは大人しく言われたとおりにした。というかその当時のあたしは、『誰かになにかを言われたらそのとおりに動く』という動作が染み付いていた。
大人しく息をひそめ、激昂する大人から逃げている時のように身体を丸める。
この村の子供は、隠れることが得意だ。大人はいつも理由もなく激昂し、誰彼かまわず、目についた子供を殴るから。誰かが怒っていたら、釈明するより先に逃げることを身につけていたから。
この冷たい石の小屋は、あまりにも村から外れている。
遠くの炎は、ほんの少し夜空を照らす程度にしか見えない。うるさい怒鳴り声も、狼狽する叫び声も、うっすらとその面影を伝えるだけだ。
しばらくじっとしていると、遠くから誰かが歩いてくる音がした。
冷たく静かな風が、焦げた臭いを運んでくる。
シダが揺れる。その度に、誰かが熱した金属で怒られている時と同じ臭いがした。
「……ばっかじゃねーの!」
唐突に聞こえた声に、びくりと飛び上がりそうになる。息を殺して耐える。
男の人の声だった。
けれど、村の誰でもない、知らない声だ。
「バカ! アホ! このポンコツトカゲ野郎! なんてことしやがる五人くらい燃えてたしここにくるまでに結晶カズラの毒使いまくってもうほとんど残ってねーよどうすんだ!」
「思慮深い私の相棒はいつなんどきでも『不慮の事態』があった場合に備えて、予備の毒を予備の旅支度に積み込んであるだろう」
「ああ、そうだ。いつもいつもおまえが『こんな荷物は邪魔なだけだろう』って文句言うあの予備の鞄の中にな! たしかに入ってるけどな! 一回分くらいはいけるけどスッカラカンじゃんよ!」
「また、集めに行けばいい。結晶カズラの群生地はまだ枯れ果ててはいない」
「つーか火をつけたのは誰だよ。お前じゃないだろ、ガタガ」
「………………」
ガタガが黙る。しばらくの沈黙の後に、男の声が淡々と響く。
「あのな、ガタガ。俺はたしかに、一番の最悪だけは勘弁してほしーなぁとは思ってたよ。トカゲ頭のお前が忘れないように何度だって言うけど俺にとっての最悪は、『お前が俺を殺す事』だ。お前が慈悲とか愛とか憐れみとかとにかくどんな理由であっても、俺を、勝手に、殺すことだ」
「――承知している」
「ほんとかよ。ほんとか? なーんかイマイチ信用できないんだよなぁお前。いいか、もっかい言うぞよく聞けよドラゴン。勝手に殺すな、約束だ。どんなにしんどくたって、死んだ方がマシだって誰もが思う同情待ったなしの状態になっちまっても、慈悲なんかクソ喰らえだ。――俺はお前と、最後の一秒まで一緒だ」
そしてまた静かになった。
ガタガは、返事をしなかった。けれどどうやら男の声は、それでも良かったらしい。
言葉がなくても良しとしたのか、単純に言葉を待つ時間がなかったのか、わからない。
ただ、次に聞こえたのはバサリと布をまとう音で、それはたぶんさっきまであたしがくるまっていたあの重くてあたたかいコートだった。
「これは、俺の想像する最悪じゃない。でもまぁ、そこそこの最悪だ。そこんとこ自覚はあるわけ?」
「無論だ」
「……わかってりゃいい。説教はこの村を出てからだ」
一通り言いたいことを言い終えたのか、やっと二人は小屋の鍵を開けたようだった。
さっさと終わらそう、と男は言った。
そのつもりさ、とガタガは言った。
あたしからは、小屋の中は見えない。けれど産まれた時から知っているカミサマの甲高いか細い声は聞こえる。
カミサマは鳴く。昼も夜も夏も冬も関係なしに、鳴く。
鉄の扉が開いて、小屋の中の音がほんの少しだけ漏れ聞こえた。
男の足音。もう一つ、家畜を歩かせている時のような音。ロウワァートララハァ様のか細い声。そして、キィ、キィ、となにか……ぶら下がっているようなモノが揺れるような、音。
「うっわぁー随分な家畜っぷりじゃないの。えーと……ガタガ、これ誰だと思う? 俺は官僚のおばさんじゃないかなーって思うけど。あーいやおっさんか?」
「生憎と私はきみの交友関係についての知識はないよ。あの街のこともわからない。ほとんど意識に残っていないんだ。そもそもきみは、相手が既知であろうとなかろうと、情をかけるタイプでもない」
「まぁそりゃそうなんだけどさ。一応【鍵】の場所くらいは訊いてみてもーっつっても喋れねーんだっけかね、もうね。そりゃ言葉なんか忘れるわな。なに言っても叫んでも誰も聞いてくれないんじゃ、必要なくなる」
男はもう一度、さっさと終わらそう、と言った。先程とは少し違う、ほんの少しだけ優しい声だった。
「耳が機能してんのかわかんないけど、まぁ安心してよ。俺特製の結晶カズラの毒は抜群に効く。みんなは知らないかもしんないけど、これでもそこそこの腕前の薬剤師だったんだからね。まぁ、あの街の人にとっちゃ、戦争から逃げたただのボンクラ野郎でしかないだろうけどさ。……結晶カズラは痛みを誤魔化す。これからなにがあっても、痛くも痒くもないだろう」
男はなにか、作業をした様子だった。ごそごそと、音がする。あたしには、まだなにもわからない。
「よーし、準備完了だ。いまからアンタは死ぬ。やっと、死ぬ。アンタがどんなつもりで不死者になり、どんな人生を送り、いまどんな気持ちなのか、俺はわからないしたぶん一生知ることはない。ただ、静かな死をプレゼントすることしかできない。不安に思う? ちゃんと死ねるかって? 大丈夫まかせとけ。俺たち死なない人間を、唯一殺すことができる奴を連れてきたんだ」
男の足音がする。中の人から、少し、距離をとったらしい。
「オッケーガタガ、やっちまおう。これでまた一人、サヨナラだ」
「もういいのか? 【鍵】の話は――」
「どうせ喋れないっしょ。さっきから同じことしか言えてないし、なんなら目も耳も潰れてんじゃないのって思うよ。いやー久しぶりにひでーの見ちゃったな。……上手いこと再生されないとこうなっちゃうよっていう見本みたいなやつだ。お互いのためにもサクッと終わらせよう」
「それがきみの慈悲なのだな、オズワ」
「勘違いすんなよーガタガ。俺がグラスの底に残った水程度の慈悲をかけんのは他人にだけだ。自分にはかけない。だからお前は――」
「わかっているとも。私は、きみが殺す決意をしたものしか殺さない」
あたしは壁の外にいた。だから、何が起こったのかわからなかった。
ただ、ガタガがなにかをした。なにか……ほんの少し、肺に力を入れて吸い込むような音がした後、甲高いカミサマの声は消えた。
最後の鳴き声を聞いた時、あたしは座ったまま濡れた土の上で震えた。
立っていたら、崩れ落ちていたことだろう。
ロウワァートララハァ様は鳴く。
らーてー、ろぅーてー。
甲高い、絞り出したような声で鳴く。
あれは、鳴き声ではい。あれは、人の言葉だ。と、あたしは気づく。殴られすぎてうまく口が開かなくなった時の、寒くて舌も回らなくなった時の、くぐもった声と同じだ。
ずっと聞いてきた声。でも、こんなにしっかりと聞こえたのは初めてだった。きっと、扉が開いていたから。
らすぅーぇてー、ぉろぅーひてー、ぉろうわぁ、と、らたはぁ。
たすけて。ころして。オズワとガタガ。
あれはそうだ、彼らを、オズワとガタガを、死を呼ぶ声に違いない。
あたしは知らない。ロウワァートララハァ様がどうやってこの村を救っていたのか、知らない。けれどロウワァートララハァ様がきっと死にたがっていたことは、なんとなく、わかる。たすけて、ころして。ずっとそうやって、カミサマは叫んできたのだ。
足に力が入らない。あの死を求める叫び声はきっともう、この村に響かないことだろう。
この日あたしとオズワとガタガは、カミサマを殺した。
カミサマ殺しの二人の行先はわからない。きっと、あたしとは関係のない人生を歩むはずだ。そしてあたしは、自分で殺した村を背負い生きていくことになるのだろう。
全てが終わった後、立ち上がれないあたしの目の前を、全身黒い男が通り過ぎた。あれがガタガだったのだろうか? それとも、オズワという男の方だろうか。
コートを纏った黒い人は、焦げた肉の臭いと、甘い花のような匂いがした。
その後に、風が強く吹いた。ばさり、という音をたてて、なにかが舞い上がったような気がしたが、やっぱりあたしにはわからなかった。
あたしに残ったのは、カミサマを殺した事実。
あとは、あたしをリズだと認めてくれた、顔も知らない偽物のカミサマの言葉だけだった。
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