閑話休題/マダム・ゼファの移動図書館

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閑話休題/マダム・ゼファの移動図書館

 お師様が必要以上の言葉を並べたのは、実に五年ぶりの事だ。  頭には余計な言葉をぶち込むべきではない。というのが彼女の口癖で、ぼくと話すとき以外は必要最低限の言葉しか口にしない。  マダム・ゼファは静寂を好む。  まるで、本物の図書館のように。  そのように噂されるたびににやにやと、とても嬉しそうに口元を綻ばせていることも知っている。  お師様はなんというか……そういう、ひそひそとした人々の恐れや恐怖や一歩距離を置いた萎縮や度が過ぎた尊敬が、大好物なのだ。  本当は山ほど言葉を並べたいのにぐっと我慢するのは、お師様が知る人達の間では伝説の存在となりえる『マダム・ゼファの移動図書館』の主たるものである、という尊厳……そう、プライドがあったからに他ならない。  別にぼくは、しかめっ面をしたお師様も、ぺらぺらと煩いお師様も、どちらも移動図書館の主としては相応しい、というか問題ないと思うのだけれど。  ともかく、『静寂を好むマダム・ゼファ』を大変気に入っているお師様が、やたらと言葉を吐き出したその十分間を、ぼくは生涯忘れないだろう。  ああ、久しぶりだね、元気にしていたかね、どうだね、おやまあ相変わらず口が減らないね、その生意気な言葉は一体どこから湧き出てくるものかね、長い長い人生そんなにうるさくちゃあ、相棒ともども言葉に溺れて疲れてしまわないかね――え? なに? お互い様? ああ、おまえさんの相棒も言葉が好きな変わり者だったねぇ。こんなもの、人間の要らぬ進化の賜物だってのに。  や、この子かい? 初対面だったかねぇ。おまえさん、あたしの生活にとやかく口を出すつもりなら、もっと頻繁に会いにきなさいな。そんなねぇ、何十年に一回なんて頻度で顔を出されてもね、お得意様扱いなんざしてやれないのさ。いくらウチのご先祖様の恩人と言えど……はあ? 隠し子なわけなかろうよ、この子は正真正銘あかの他人さ!  中央図書館を知っているだろう。あそこの近隣の街で拾ったのさ。なんでも孤児でね、どうにか施設に入って学校は出たものの、働き口がない。だからあたしが拾ったのさ。  ほら、ついこの間血族証明書が必須になっただろう。なったんだよ。なんだいそんなことも知らないのかね。おまえさん、まずはあたしじゃなくって新聞社にでも顔を出すべきじゃないのかね。今や時代は激動さ。そのうち遠方から遠方への伝達も、一瞬で出来るようになるだろうよ。そうなりゃ世界は発展するか滅ぶかの二択だね。人間はね、そうさ、言葉と文字なんてもの、得るべきではなかったようにね。  はー、おまえさんの顔見てるとどうも無駄話に花が咲いちまうね。マダム・ゼファの威厳なんかこれっぽっちも残っちゃいないね。あはは、まあそう言いなさんな、あたしもすっかり老いぼれだ。昔なじみに会うことなんかない職業だ、唯一の常連なんだからもっと楽しそうに……やめとくれ、エキドの名前は願い下げだ。確かに常連だけどね、いや、あいつはカウントしないことにしてんだよ。  なに? さっさと行かないと相棒が急かす? まったく忙しい男だね。有り余る時間を少しくらいは老いぼれ司書に分けてくれたっていいだろうにね。ああ、違う違う、そういう意味じゃない。ちょっとはおしゃべりに付き合いなさいな、という意味だ。まあ、几帳面な相棒がいるのはいいことさ。おまえさんはどうもねぇ、大雑把で適当だからねぇ。  さて、それじゃあ、どの本が必要かえ?  たっぷりと言葉の雨を浴びせたお師様は、見たこともないほどにんまりと口の端を上げて、聴いたこともないような柔らかな声をふんわりと投げかけた。  レースで出来たハンカチのような、とてもとても柔らかな声。  あまりにも普段とは違うことの連続で、容量がいっぱいいっぱいになったぼくは、お師様の問いかけに向かいに座った男がなんと答えたか――要するに、どんな本を所望したか――覚えていない。  気が付いた時には『謁見』と『拝読』は終わっていて、それじゃあと手を上げた男は未練がましさは一ミリも残さずに、颯爽と姿を消した後だった。  子供が丸々入りそうな大きさの箱を背負い直したお師様に、何をぼんやりしているんだと膝の裏を叩かれて初めて、ぼくは自分の口がぽっかりとあいていることに気が付いた程だ。  ああ、びっくりした。  そう思っただけなのに、なんと言葉に出ていたらしい。  珍しいことだ。ぼくはいつも、胸の内でぐだぐだと喋るばかりで、ほとんど口に出すことはない。きっとお師様の異常で異状なおしゃべりの余韻が、ぼくにも伝染してしまったに違いない。 「いやはや、今日は珍しいことのオンパレードだ。おまえさんが? おどろいた? この五年でぴくりとも笑わないおまえさんが?」 「そのお言葉、そっくりそのままお返ししますよ。お師様があんな風に言葉を並べたのはそれこそ、五年前にぼくの手を取った日以来の――」 「マダムとお呼びなさいと言っているだろう」 「……マダムがあんな風に、喋って、笑って、こうべをたれるだなんて」 「まあ、そりゃおどろくだろうさね。あたしだってあのお方以外にはマダム・ゼファの威厳を保つ努力をするだろうさ。だがねぇ、あの方はだめだねぇ、出会った頃を思い出しちまってだめだね。あたしはおまえさんと同じころの……いや、もっと若かったかねぇ。子供だった。まだ、『箱』の中身も知らぬ童だった」  そんなばかな、とよぎった疑問はすぐに拭い去る。  頭の中に浮かんだのは、先ほどお師様が嫌そうに口にした人の名だ。 「あの方は……エキド医師と同じ、不死者、なのですか」 「アレと一緒にしなさんな。背負ってるもんが桁違いさ。まあ、あの医者は医者で、役に立たん事もないんだがねぇ、如何せん会話が成り立たん」 「ぼくは割合好きです。うるさくて」 「うるさいから苦手なんだよ、まったく言葉はそんなに浴びるように頭に叩き込むもんじゃない。ひとの頭はね、たったこれっぽっちの大きさだ。その中にしまい込める言葉なんざ、たかが知れている。大切なことに割くべきだ。大事なことを優先的に覚えるべきだ。その為にはくだらない言葉も無駄な知識もくだらないゴシップも、口にせず耳にしないのが一番だ」 「マダムは、喋ることがすきなのに」 「おまえさんが聞いてるからいいんだよ。どうでもいい話なんぞ、身内が一人、聞いてくれりゃそれでいい。どうせあたしも死ぬからね。死から逃れられんからね。そしたらおまえさんがあたしを思い出すために、くだらない言葉は必要さ。これは移動図書館の仕事じゃないからいいんだよ。あたしとお前の会話は家族の縁さ」 「かぞくのえん……」 「なんだい、嫌か。嫌なのか。移動図書館の主の跡取りなど本望ではなかったかね」 「いえ。ぼくは移動図書館の主の跡取りとしてマダムについてまわっていたつもりだったので。本日、いまこの瞬間に初めて家族だと知り、動揺しているところです」 「……微塵も表情が動いていないけどねぇ。可愛げがないところも気に入っているんだが。……そのくらいの度胸がないとね、やってられない仕事だ。さて、次にあの方が声をかけてくださるときには、もう代替わりしているだろうねぇ。しっかりおやりよ、あたしの無口な後継者。あの方が居なかったら、あたしたちの仕事は成り立たなかったのだからね」  よいせ、とお師様は少々乱雑に箱を背負い直す。  ぼくが、と口を出してみたものの、いつもと同じように『疲れるまではあたしの仕事だ』と突っぱねられた。  マダム・ゼファは移動図書館の主だ。  背負う箱は、子供が一人入る程度の、長細く頑丈な箱。その中に入っているのは本でもなければ文字ですらない。  ぼくはまだ中身を見せてもらっていない。  けれど、中に入っているものが、なんらかの生物であることは知っている。  ヒトではないとだけ聞いている。そのヒトではないがヒトの言葉を知っている何かは、その記憶の中に膨大な量の書物を記憶しているのだ。  お師様はただ、この箱を運ぶだけのガワだ。いわば図書館における建物である。マダム・ゼファの移動図書館には、本の整理や管理は必要ない。目録作りも、虫干しも、閲覧者の案内も必要ない。  ただ、箱の中のいきものに、適度な栄養を取らせるだけでいいのだ。  探している本があれば、ただ問いかけるだけでいい。  その箱の中に該当する書物の知識があれば、あとは掠れた木の葉のような声の主が朗々と朗読してくれる。  ぼくは少し前まで、この箱の中には人間が詰め込まれているのだと信じていた。ある日、閲覧を求めた男が聞いていた書物の中に、不死者を作った街の名前が出て来たからだ。  南の魔都、テレーズ。死なない人間を作り出した禁忌の街。人と、幻獣を弄んだ街。  お師様が背負う箱に、その街の名前が刻まれていたことを、ぼくは知っていた。  けれどぼくのこの思い込みは、あっさりとお師様に笑い飛ばされた。 「テレーズ製であることは否定しないさ。この箱は、そして箱の中身の『図書館』は、たしかにテレーズ製だ。もしかしたら不死なのかもね。でも、こいつぁ、人間様じゃない。もっともっと、尊くて貴重な幻獣様だ。テレーズはね、不死の研究以外にも様々な研究をしていたんだ。いまとなっちゃぜーんぶおとぎ話だがね、なんといっても資料がない。中央図書館は検閲がひどいし禁書は軒並み暖炉の餌だ。あとは当人が当時を知るのみさ」  当人、というのは、テレーズの死なずの人間のことだろうか。  ぼくはもうすこしこの話を聞きたかったが、お師様はそれっきり口を噤んで懐かしそうに眼を細めるばかりだった。  それ以来、ぼくは箱の中身に思いを馳せることをやめた。  どんなに素晴らしいものでも、おぞましいものでも、別にどちらでもいいじゃないか、と思うことにしたのだ。  時は流れる。万人に、平等に流れる。死なずのテレーズ人でなければ、ぼくもお師様も年を取る。とても想像したくないし、覚悟なんてまだ微塵もないけれど……いつかきっと、ぼくは『マダム・ゼファの移動図書館』を受け継ぐことになるのだろう。  中身はその時に見たらいい。それだけの話だ。それがどんな姿をしていようとも、ぼくの仕事には関係のない話だ。  ぼくはお師様を見習い、世界を練り歩くだろう。  時折本を仕入れ、知識の更新をしながら、ゆっくりと移動図書館の任をこなすだろう。 「さて、ルルワナ。いい機会だ、あの方の顔をしっかり覚えておきなさい。なぁに、大丈夫、なんといっても年を召さない。お洒落に余念がない方でもない。大概似たようなズタボロの旅人装束でへらへらと手を振って現れる。時には大きな相棒も連れているが――これは自分の目で確かめなさい。どうせならその強固な表情筋が驚愕に固まった顔が見てみたいものだね。さあさ、あたしが死ぬまでにもう一度、捕まえてもらえたらいいのだけれど。ああ、一番大事なことを忘れるところだったね。名前、そう名前だ。二度は言わないよ、大事なことだがあまり言いふらすもんじゃない。書き残してはいけない、『図書館』に覚えさせるのもナシだ。禁忌とはね、そういうものだ。テレーズとはね、そういうものだ。いいかい、しっかりお聞き。あの方のお名前は」  ――オズワ、そして相棒の名は、ガタガ。  これが現『ゼファ移動図書館』の主であるぼく、ルルワナ・ゼファが初めてその名を聞いた日のことだった。
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