結晶カズラとキトワンナ

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 不調から回復した時、毎回健康に感謝する。  普通に生きるということは、こんなにも快適なのかと涙して、昨日までの咳と熱とだるさと吐き気に暴言を吐く。  人生初の瀕死から見事(そして何故か)回復した私も、まさに感謝の真っただ中にいた。  ただし感謝の対象は己の健康ではなく、私を救ってくれた命の恩人だ。  恩人ことオズワと名乗った男性は、妙に疲れた笑顔でへらりと笑う。お兄さん、と呼ぶにはすこしくたびれているけれど、中年かと言うと悩む、そんな感じ。笑うと目の端にちょっとだけ皺ができる。その皺がなんだか、彼の柔らかい雰囲気をさらにふわふわにさせる。ふわふわ……そう、オズワは、妙にふわふわした人だ。 「いやぁー生きててよかったねぇ。もうちょっとね、通りかかるのが遅れてたら見事結晶カズラの養分になっちゃってたね。なんなら足とか壊死してたしね」  からからと笑う。ふわりとした顔で笑う。ちょっと猫背のオズワは、よいこらしょーと声を出してから飴色の切株に座った。  ずっとそこにあるような、キレイに磨かれた切株型の椅子だ。目を覚ました私は、疑うことなくここが病院だと思った。けれど実際は結晶カズラの谷からほとんど離れていない森のど真ん中だ、ときいて、ご冗談をと笑おうとして咽てしまった。  オズワは大変あやしく、大変軽い性格の人だけれどなんと嘘はつかない、ということを知るのはもう少し後の話だ。そんなわけで嘘をつかないオズワの言う通り、この小屋は確かに森のど真ん中にあった。  人嫌いの森。結晶カズラの毒と大蜘蛛に守られた不侵の地。この森を横断すればすぐに海辺の町に行けるのに、人の手を阻む様々な要因から、今も行商の人たちはぐるりと山を回って歩く。そんな場所に居を構えるなんてご冗談を……と、言いたくなるのもわかってもらえるだろう。  まあ、場所はともかく、私は生きているし助けられたし今も介抱してもらっている。私が告げるべき言葉は、感謝一択だ。 「ありがとうございます、本当に、あの……死ぬ、と思いました。本当に」 「うん、まあ、半分死んでいたよ。だから俺の相棒が気付いたんだけどね」 「……相棒」  そういえば、と思い出す。  死にそうな熱の中で私が聞いた声は、二人分だった。  目の前に居たのはオズワだ。間違いない。そのくたびれた細いズボンと、よれよれで擦り切れそうなブーツが目に焼き付いている。  あのとき、私の頭の上から、落ちて来たため息があった。  一日中寝ていた私が目を覚ましたのは昨日。そして意識がはっきりしたのがその夜で、話せるほどに回復したのは今さっきだ。  二日間の病人生活の中で、私の虚ろな視界の中にひょこひょこと姿を現したのはオズワだけだ。  離れた場所にいるのだろうか。思い返せば、あまり優しい感じの声ではなかったような気がする。もしかしなくても行き倒れて死にかけている子供なんて、迷惑そのものではないか。私は――オズワからは疎ましいとか面倒とかそういう雰囲気は感じ取れないけれど――彼の相棒には嫌われているのだろうか。  ぐるぐるとした感情が、見事顔に出ていたのだろう。オズワはふりゃりと苦笑すると、ふっと顎を上げた。  首を逸らして天井を見る。  雨を凌ぐのがやっと、という風に見えるおんぼろ家屋の天井は一部だけ抜けていて、木々の合間から曇り空が透けて見えた。  雨の日大変そう。いやこの森、雨降るのかな。結晶カズラの毒でも人間は死ななかったし、もう何が起こっても驚けないかもしれない……そう思っていたのだけれど。 「ほらぁ、キトちゃん不安になってんじゃないの。ちゃんと自己紹介しなって言ったのにさァ」  天井の穴に向かって、オズワは言葉を投げる。普通に不気味な光景だ。だってそこは玄関ではないし、どう見ても誰もいない場所だし、ただの穴だし、木の葉と雲しか見えないし……と、思ってちょっとだけ身体を引こうとした瞬間、うっすらとした曇り空が陰った。  何かが穴をふさいだのだ。  そしてその何かは、つるりと光る両目をぱちぱちと瞬かせて、口を開いた。ばさり、と音がした。おんぼろ家屋の隙間から、土の匂いの風が入り込む。 「オズワ、きみは知らないかもしれないが、普通の人間は私の事など知らない方が幸せなんだよ。どうしてそうやってリスクばかり好むんだい?」 「ガタガ、おまえは知ってるだろうけど俺は友達が好きなんだよ。好きな人は紹介したい。それにたぶん俺はキトちゃんのことも好きだからね、好きと好きが仲良くしてたらハッピーだろ?」 「きみは本当に心底頭が悪い。私は頭が痛い。まったくきみはどうしてそういかれているんだろうな……キトワンナ、ああ、立たなくていい。こうべをたれるのもよしておくれ、私はきみたちが信仰する天竜とやらとは別の個体だ。……親戚かもしれんがね」  トカゲだ。まず、そう思った。そしてすぐにいや違う、これ違う、トカゲじゃないし蛇でもない、と気が付いた。 「ど」  もう驚かない。さっき私はそう言ったよね。あれは、嘘だ。 「ドラゴン……? え? うそ、どら……え?」 「……ほらみろオズワ。これが普通の人間の反応だ。たまには彼女のような当たり前の反応を目にして己を省みてはどうだ?」 「馴れ馴れしくない俺なんか好きじゃないでしょうよガタガー。あ、キトちゃん本当に頭下げないでいいよ。別にアレ、普通のただのドラゴンだからね」 「普通で、ただの……? え、てか……ぜ、つめつ、したんじゃ」 「お。教養あるね~そっかその服やたらかわいいと思ったけど、学生さんの制服かな? 崖の向こうはトルテリア連合国の端だっけ。あー……そうか学校できるくらいでかくなったのね」 「……やっぱり、わたし、死んだ……? 夢なんじゃないの、これ」 「夢なら覚めてえーなんて台詞は、本当に不幸な時だけでいいんじゃないの? きみはいま生きてて、五体はわりと満足で、伝説のドラゴンと楽しく会話できる素晴らしい環境なんだからもっと現実楽しまないとー」 「オズワ、少し黙ってやれ。きみの悪いところはとにかく勝手に煩いところだ」  頭上から、少し硬い声が降りてくる。確かに口のようなものが動くたびに、その奥からかさついた重い声が響く。はりぼてでも、幻覚でもないらしい。  重い声に言われた通りおとなしく黙ったオズワは、少し笑って肩を竦める。  私は相変わらず馬鹿みたいに口を開けたまま、ドラゴンの顔を見ていた。  この世界には害獣が多くいる。人と同じ背丈の蜘蛛とか、家より大きい蛇とか、鳥とか、魚とか。そういうものひとつひとつに、一応は名前がついていたり、駆除方法や共存方法が伝えられている。  その害獣の中でも、ドラゴンは特別な存在だ。その言い伝えは、伝説とかおとぎ話に近い。  火を噴くだとか、毒を吐くだとか、一か月眠らないとか、永遠の命があるだとか。昔は各国を治めるドラゴンがいて、その下に人間の王が仕えたというお話もあった。勿論、今は国の中枢にドラゴンがいるなんて聞いたこともない話だ。  おとぎ話のなかの、生物。  それがいま目の前にいて、私のわかる言葉を話し、私の名を呼んでいる。まるで夢だ。夢としか思えない。けれど、確かに、オズワの言うとおり――夢であってほしいとは言えない。  彼の瞳はとても綺麗に光っていたし、彼の声は少しかさついて重い音だけれど、私を慮る響きをふんだんに含んでいたからだ。  夢かもしれない。私は本当に死んでいるのかもしれない。けれど、夢でも覚めなくていい。こんな素敵な事は、私の短い人生で、たぶんきっと初めてだ。 「さて、うるさい大人が黙ったね。自己紹介をしようか、キトワンナ。私はガタガ。この煩い大人がやたら連呼するからね、もしかしたらもう覚えてしまっているかもしれないが、きみたちの間では名の交換は大切な儀式だろう」  ガタガは笑う。器用に口の端が吊り上がる。 「……はじめまして、私はキトワンナ。もう、知ってると思うけど、キトワンナっていう人間の、ええと、少女って自分で言うのもアレかな……女の、子供です。あなたが私を見つけてくれたの?」 「そうとも。散歩中にね、ふらりと死の臭いを嗅いだ。あの辺りは獣も近づかないから、不思議に思って臭いの元をたどったんだよ。そうしたら、死にかけのきみがいた」  ガタガは目を伏せる。トカゲの瞼が美しい瞳を隠す。 「きみを担いだオズワにぜひとも、感謝してやってほしい。少々恩着せがましく聞こえるかもしれないが、実際にオズワはできる限りの最善を尽くした。その行為は、純粋に評価してほしいと私は願う。たとえ投げ出した命だったとしてもね」 「………………え」 「ガタガ。ガタガ、ちょっと、ああもう、なんでおまえはそうやって大真面目に空気を読まないの」 「私は人ではないからね。人間の会話術など知らないよ」 「確信犯め……おまえの悪いところは、俺のことが好きすぎるところだ!」 「ごもっとも」  笑う、ガタガの声も、怒る、オズワの声も私には聞こえない。薄っぺらい音として意識の上を通過する。私は一瞬で刺された胸の傷を、押さえて息をする事だけで精一杯だった。  投げ出した命。ガタガの言葉が、頭をぐわんぐわんと揺する。それなのに、オズワも容赦なく言葉を突き付ける。 「ごめんねほんと、空気を読まないトカゲで。いや、ほんと、気にしなくていいんだよあいつの言葉なんか、風の音くらいの気持ちで流せばいいんだから。あー、ちょっと日が落ちてきたねぇ、今日は外で飯食おっか。久しぶりに魚捕って来たから――」 「なんで。……なんで、わかったの?」 「は? え、ああ、なんできみが死のうとしてたかわかったか? って? だってあんな場所、死にたい人以外は通らないでしょうよ。だから知ってたよ、死にたかった事ね。だから助けちゃって申し訳なかったかなぁと思ったんだけど……ありがとうございましたって、言ってくれたからねぇ。どうでもよくなっちゃった」  だからごはん食べよう、食べなきゃ死んじゃうからね、と笑う。  オズワの声が笑うから、やっと私は息を吸いこんだ。そして頭上のいきものも、ゆっくりと静かに息を吐いたことに気が付いた。  一瞬だけ冷えた空気が、また穏やかに流れだした。  胸のつっかえと後ろめたさがすっかり薄れている。隠していたわけではないけれど、申し訳ない気持ちはあった。  あんな場所で死にかけていたせいで、オズワにはひどく迷惑をかけたんだろうと思ったから。けれどすっかり見透かされていると知ったら、なんだか、楽になったのだ。  私の視線の先で、ドラゴンはついと視線を外し、屋根の穴から顔を退けてしまう。ばさり、と風の音がする。 「さあさ、飯だ。飯を食おう。話は食いながらだってできるよ、人の口は便利だからねぇ」  オズワが開けた扉の向こうでは、小さな家程の大きさの黒いドラゴンが、こちらを見て目を細めていた。
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