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喉がカラカラに乾いていた。
貼りつくような渇きに耐えられず、私は寝床を抜け出して外に出た。
小屋の横には、キレイな水が常備してある。好きに飲んで良いよと言われていたので、私は遠慮なく水をひとすくい、干からびた喉に流し込んだ。
喋りすぎたのかもしれない。それとも、緊張しすぎているのかもしれない。
今朝までの私はとにかく瀕死で、今も少しだけふらついている。それでも夢うつつとは言い難い。命の恩人で相当年上のきちんとした大人だと分かっていても、知らない人と同じ部屋で寝るというのはちょっと、……結構かなり、非日常的だ。
明日は忙しいから今日はもう早く寝よう。
そう言ったオズワは妙にやる気に満ちていて、少し怖いくらいだった。
死なない男の子の話。
私の話した笑い話のような噂が、彼にとってそんなに大事な話だったなんて。
――死なない人間を、殺しているんだ。
そう言ったオズワは、決して冗談を言っている様子ではなかった。オズワは私の話を聞くことに一生懸命すぎて、結局彼の目的について詳しく教えてはくれなかった。私も聞けなかった。殺す、という言葉が、あまりにもオズワに似合わなくて、怖くて何も聞けなかった。
「……眠れないのかい」
ふ、と声が落ちて来た。
投げかけられたのは、重くて掠れたように響く、美しい生き物の声だ。
ガタガは黒い身体を闇の中に横たえていた。
きれいな鱗が、星の明かりで少しだけ光る。半分だけ開いた瞳が私を見ていた。
「まあ、あの興奮した男と同じ部屋に居ては落ち着かないだろうね。寝ていても煩い男だ。気配の消し方を知らない。だから、煩くて飽きないのだがね……おいで、キトワンナ。寝物語をきかせてあげよう」
促され、私は闇の中を歩いてガタガの目の前に座った。木でつくられた小さな椅子だ。私の住む街で使われている木と同じ色をしているから、きっとこの場所でオズワが作ったものなのだろう、と思う。
小さな小屋も、家具も、水をためておく桶も、随分と使い古したように見える。数年、もしかしたらもっと前から、二人はここに住んでいたのかもしれない。
「……明日、発ったら、もう戻ってこない?」
私の問いかけに、ガタガは少しほほ笑んだ気配がした。
「そうだね、またしばらくは定住することはないだろう。どこかに住むとしても、ここではない。きっともう、私たちは会うことはないだろう。そういうものだ。私たちは、おとぎ話の存在だからね」
「でも、いま、目の前にいる。ガタガもオズワも、現実にいるよ」
「きみは本当に頭がいい。だから私は、きみには嘘をつかない事にする。そもそも、ドラゴンは嘘が苦手だ。私たちは紳士で、正直な生き物として生まれる」
「星のない夜に、生まれるって本当?」
「どうかね。私は自分が生まれたときの記憶はないし、子を成した事もない。だからドラゴンが生まれる日のことは知らないが、おとぎ話ではそう伝えられる。ドラゴンは星のない夜に、ただ二つの目を星のように輝かせて生まれる。この世で最も死から遠く、死を愛おしむ生き物だ」
この世で最も死から遠い。つまりそれは、死なないということだ。ドラゴンがおとぎ話の生き物だと笑われる、一番の要因なんじゃないかと思う。
どんなに大きい害獣も、長生きな害獣も、頭を落として心臓を串刺しにしたら死ぬ。それなのにドラゴンは死なない、と言われる。
死なない、老いない、不老不死の生き物。
でも、ドラゴンは絶滅した。死なないのに、老いないのに、その数は確実に減り、そして消えたはずだ。
私の疑問を、暗闇の中でも感じ取ったらしい。ガタガは、すうっと光る眼を細めて声を潜める。
「ドラゴンはね、キトワンナ。死ぬ生き物に、命を分け与えて己の命を削るのだよ」
「……命を、与えて、削る……」
「そうだ。私たちは死なない。私たちは老いない。だからその有り余る生を、命を、か弱く死んでいく生き物に少しだけ譲るのだよ。そうして寿命を少しずつ、分け与えて死を目指していく。遠い遠い死を、手繰り寄せて迎える。命を与え、対価として死を貰うのだ」
「わざわざ、寿命を削って他人にあげちゃうの? 何もしなければ、ずっと長く生きれるんじゃないの?」
「ずっと長く生きることはできる。けれど長い命は名誉ではない。ドラゴンは分け与え死ぬために生まれるのだから、己の命が続くことに意味はないと考えるのだよ。一定の年数で死が訪れる人間とは、そもそもの考え方が違うのだろう。私たちは死を恐れない。私たちは死を愛おしむ。だから、寿命を与える。しかしとある国の人間は、ドラゴンを利用して永遠の命を得る研究を始めた」
ガタガは語った。それは、ひとつのおとぎ話のような話だ。
南東の端には海につき出すように栄えた街があった。そこには数多くのドラゴンがいて、街の人々はドラゴンと供に暮らしていた。けれどある時、人々は考えた。
ドラゴンから与えられるのではなく、奪うことはできないか。
友人ではなく、使役するペットにできないか。
ドラゴンは次々と捕らえられ、街総出で大規模な研究が始まった。ドラゴンは己の意志で命を削る事を禁じられ、そのうちに養殖のようなものまで始まった。最終的には人の手でドラゴンの分身が作られた。幾人もの人間が、ドラゴンの命を己のものとした。削って与えるといったささやかなものではなく、命を共有する術を見つけたのだ。
大量のドラゴンとその永遠に近い命を強制的に手に入れた人間は、ただ慎ましく長生きしたわけではなかった。
不死を手に入れた彼らが次に起こした行動は、戦争だ。死なない身体の次は、近隣の富を手に入れようとしたのだ、と、ガタガは目を伏せる。まるで見て来たみたいに、悲し気に。
「その街は岬にあった為に、戦争の技術はなかった。海は始終荒れていて攻め込むには都合が悪かったし、陸側には立派な堀があった。先人が残した立派な外壁もあった。戦争慣れしていない人々の唯一の武器は死なない身体だったのだよ。ああ、悪夢のような光景だった。人がどんどん、赤くなっていく。それでも死なない。倒れない。勿論痛みはあるだろうに、死なないからと言ってね、まるで万能の兵器のように生身の人間が走って突撃していくのだよ」
「……その人たちは、勝ったの? 負けた?」
「勝ったとも。勝ってしまったとも。なにせ死なないのだからね、負ける要素がない。けれど勝ってしまったから、近隣の国が、街が、一斉に結託してかの街を潰しにかかったのだよ。それはそうだ、あまりにも恐ろしい、あまりにもおぞましい、敵の手を借りてでも潰さねばならない悪しき街だ。結局は悪に成り果て、街は消えた。正確には、封印されたと言った方が正しいかもしれない。……なにせあの街の人間は死なないからね。どこかに集めて幽閉して、扉を秘めてそれっきりと聞いたが、さて本当かどうかはわからない。さて問題は、戦争に嫌気がさして逃げた人間がいた事だ」
街から逃げた不死の人間。いつまでたっても死なない人間。ドラゴンから生を奪った、愚かな人たち。
私はどんな顔をしていたのだろう。きっと、相当に酷い顔をしていたに違いない。ガタガは薄く笑い、息を吐き、怒っては駄目だよと言った。
「目の前に利があれば、手を伸ばしてしまうのが人間だろう。その性を、私は醜いと責めることはできない。私はきみたちの、良いところも知っている。欲があり、哀があるのが人間だ。ただ、私にも役割がある。私はね、キトワンナ、悪の街の生き残りだ」
ガタガは笑う。私は少し、息を忘れる。
「私は無気力だった。どうにでもなれと思っていた。鱗を何枚剥がれても、倒れるほどに血を抜かれても、特に何も感じなかった。絶望していたのだ。だから街が滅んでも、ただそこにいた。何をすることもなく、ただ存在していた。早く死のうとすら思えなかった。死は栄誉だ。そんなもの、すべてを投げ出した私が得るべきではないと思っていた。頭のおかしな、いかれた男が目の前に現れるまではね」
その男は、ガタガに言った。
やあ、可哀そうなドラゴンってあんたのことか! ちょっと研究させてもらうついでに、街の始末をつけにいかないか!
「……オズワ、昔っからあのテンションなんだね」
「そうとも、煩いことこの上ない。だがあの煩い男がね、私に役目を持ってきたのだよ。ドラゴンの命を奪った生き残りを、いつまでも死なないあの街の人間を、葬るべきだとオズワは言った。そうしてすべてを終わりにしてから死んでくれと笑ったものだ。あの耳障りな笑い声を聞いた時の私の不快感がわかるかい? ああ、不快だと思ったのだ。街が滅んで百年ぶりに、感情を思い出したのだ」
不快な男は、ガタガに感情を思い出させ、ついには役割を与えた。
「代償だ、とオズワは言ったよ。街の生き残りの役割だ。街の破滅をただ見ていた罪の代償に、残りの命を差し出せと言った。全くひどい男だった。そしてそれは素晴らしい提案だった」
その日からガタガは彼に命を与えながら、死なない人間を探して旅をしているのだと語った。
私は納得した。
ずっと不思議だったことに、説明がついた。
オズワは死なない。正確には、ガタガが命を与えている限り死なない。だから必ず死ぬはずの結晶カズラの毒にも怯えず、群生地を堂々と歩いていたのだ。
そしてきっと毒で削られた私の命も、ガタガが自分の命を削って、与えてくれたのだろう。
「助けてくれて、ありがとう。ガタガ」
死にたいと思っていた命だけれど、今は本当に、生きていて良かったと思う。だから素直にお礼を言った。
けれどガタガは首を振る。
「私はきみに嘘をつかないと誓った。だから、告白しよう。私はね、キトワンナ、きみを殺すべきだと主張した」
「…………え」
「私は己が目立つ存在であることを知っている。この巨体は闇夜に紛らせることはできるが、太陽の下ではどうにも隠すことは難しい。人の口に戸は立てられない。ドラゴンがいた、などと噂になっては困ると言った。けれどオズワは助けると言って譲らなかった」
だから助けた、とガタガは言う。
私はただ、その言葉を静かに聞いた。
「二度の死の危機からきみを救ったのは、オズワだ。感謝は彼にするといい。願わくは彼の為に、彼の力になるような生を送ってほしい」
「オズワの、力になるような」
「そうだ。きみはまだ若い。人の命は私からしてみれば短いが、一日の積み重ねは決して一瞬ではないだろう。キトワンナ、きみはどんな大人になりたいと思うのだね?」
「私は……私は、図書館とか、本を作るような仕事につけたらいいかなと、思ってたけど」
「なるほど、知識が好きなきみらしい夢だ。ただ本を読むときには、気を付けるべきことがある。人の歴史は、あやふやなものだ。勝者がすべてを書き換える。人間は容易に嘘をつく。本を、文章を、頭から信用してはいけないよ。西の端は新聞とやらが随分と発展していてね、嘘を見抜く人々が活躍していたが、今はどうなっているか……」
私は少し考える。口を開いて言葉を出そうとしたけれど、うまくいかずにまた閉じて、ガタガはそんな私を急かそうともせずにただ黙っていた。
私にできること。私が目指すもの。本ばかり読んで、知識ばかりあって、世間を知らない私がオズワの為にできることは、なんだろう。
「今すぐ何か、答えのようなものを見つける必要はないだろう。夜が明けねば明日は来ない。一晩の間に、きみならば一冊の本が読めるに違いない。私の言葉など忘れて、好きに生きても構わないのだからね。さて、眠れない夜に、眠れない話をしてしまったかな……」
「……ガタガは、秘密が漏れるのはよくない、って思ってるんでしょ?」
「ああ。全くその通りだよ、キトワンナ」
「じゃあなんで私に昔話をしたの?」
「……さて、何故だろうね。久しぶりにオズワが楽しそうだったから、私はきみに誠実であろうと思ったのかもしれないね」
「…………ガタガは、オズワにすごく甘い?」
「自覚はあるが本人には言い難い」
照れたように笑う、その黒い生き物が愛おしくてどうでもよくなり、私は素直に笑った。
ガタガの物語が本当なら、きっと二人はもう何年もこの世界を彷徨っているのだろう。誰も知らない二人の物語の一端に、少しでもかかわっただけでも、とてもすごいことのように思える。
街に帰ったら、図書館に行こう。南東の街の記録が残っているかもしれないし、そこまでの経路もわかるかもしれない。そして何が真実で、どれが嘘か、考えよう。私の進路は、そこから始まるような気がした。
おやすみ、と話を終えるガタガに、私もおやすみと返す。
明日はおやすみを言うことはないのだろうから、最初で最後の挨拶だ。
おやすみなさい、たくさん生きたガタガ。
明日も、あなたとオズワが笑っていますように。ほんの少しだけしか一緒にいれなかったけれど、私はこの二人がとても好きだ。そう思うから、また会いたいなんて我儘は言わずに、簡素なベッドでぎゅっと目を閉じた。
また会いたい。でもそれはきっと、私の努力の対価としてつかみ取るべき未来だ。
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