カミサマ殺しと紛い神

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 エリッタ=ズゥ・リシリスことあたしは、中央大陸の北西に位置する貧しい集落で生まれた。  本当の親の顔は覚えていない。何度か家が変わり、同居する大人の顔ぶれも変わったが、それが何を意味するのか誰も教えてくれなかったし、『ああ、あたしは都度売られていたのか』と気がついたのは、村を出てからのことだった。  あの村の子供はみんな、家族なんてものを知らなかった、と思う。大人でさえ自分たちの命を守ることに必死で、望まぬ妊娠で生まれた子供の面倒など誰も引き受けたくはなかったのだろう。  殺されなかっただけマシだと思えと言わんばかりの扱いだった。  朝から夜まで、子供たちは働いた。畑仕事を手伝い、家畜の世話をし、重い荷物を運び、ありとあらゆる場所の床を磨いた。  労働する肉程度にしか思われていなかったのだろう。実際にあたしたちは、労働するだけの肉だった。  人間は愛し合い結婚し、家族として子供を儲ける。そんな概念を知ったのも、村を出て学園都市として名高いトルテリア連合国に足を踏み入れてからだ。それまでのあたしは、妊娠とは女が泣いた後にするものだと思っていたのだから。  寝床は固いと思っていたし、冬は凍えて節々が痛んで当たり前だと思っていたし、湯あみ場も厠も臭くて冷たくて汚いものだと信じていた。大人は厳しく、誰も笑わない。彼らが笑うのは、誰かを嘲る時だけだ。そしてあの村の人間は、当時のあたしも含めて大半が、焼け焦げて腐ったようなくすんだ赤い髪色をしていた。  一部の清潔な人々(今思えば、あれはあの村で数少ないまともな家族だったのだろう)を除き、あたしの知る世界は寒く痛く不衛生だった。ありていに言えば見事に不幸だったのだろう。  寒さも痛みも臭いも痒みもありとあらゆる不快感も、それが当たり前だったから、特別にひどい生活だった、と思ったことはない。  ひどいかどうか、なんて、あの時のあたしには、わからなかったのだ。  ただ毎日痛くて寒くて、単純な苦痛に幾度も泣いたことは覚えている。  惨めだとか、辛いとか、そういう感情的なものじゃない。凍えた指先が、ぶたれてめくれた皮膚の皮が、化膿して倦んだ傷が、痛くて痛くて痛くて叫んで泣いた。  家畜小屋の隅で痛みに叫ぶと、何度かに一度くらいはその時の『親』が飛び起きてわざわざあたしを殴りに来た。  あの痛みに、あの心底凍える寒さに、よくぞ耐えたなぁと思う。たぶんあの時のあたしは目の前の仕事をこなすことばかりしか考えていなくて、死ねば開放される、なんて当たり前のことすら気づけなかったのだろう。  学のない、頭も悪いあたしは当時自分がいくつだったのか、よく覚えていない。  リズ、あなたは今年何歳よ、なんて教えてくれる母親はいなかったし、誕生日プレゼントを買ってくれる父親もいなかった。  九歳か十歳くらいだったんじゃないか、と思う。  自分で自分を終わらせることに思い至らなかったあたしは、日々の痛みに耐えかねたある日、世界を終わらせる手段を唐突に思いついた。  大人を片っ端から殴っていく体力はない。きっと殴り返されるし、それはもっと痛い。痛いのは嫌だ。痛みをどうにか止めたいのに、殴り返されたら元も子もない。  臭くて寒い小屋の隅でガタガタと歯を震わせていたあたしは、うっすらと聞こえる叫び声のようなものに気が付いた。  それは酷く不気味で、甲高い、獣の鳴き声のような音。  らーてー、ろぅあーとぉららはー、ろぅーてー。  それはこの村に時折響きわたる、気味の悪い鳴き声だ。普段は怒鳴ることしかしない大人たちが、アレの話題になると急に表情を殺して囁くように声を潜める。  いいか、よくきけ、きちんときけ。東の端の赤鳴きシダに覆われた小屋には近づいてはいけない。あそこにはロウワァートララハァ様が住んでいる。ロウワァートララハァ様の声真似をしてはいけない。御姿を見てもいけない。この貧しい村が飢えずに存続できているのは、ロウワァートララハァ様のおかげなのだから。  ……そう言うわりに、大人たちは誰もが自分たちの言葉に怯えているようだった。  ロウワァートララハァ様が何なのか、あたしはわからない。大人たちも教えてくれない。けれど恐れられ、大人が声を潜めるその存在は、いつか旅の宣教師という人が語った『カミサマ』というものを連想させた。  ロウワァートララハァ様は、きっとこの村のカミサマなのだ。  この村が存続しているのは、カミサマであるロウワァートララハァ様のおかげなのだという。  それならカミサマを殺そう。ロウワァートララハァ様を殺そう。たくさんの大人を殴っても、きっとあたしは殴り返されてしまう。けれど、たった一人のカミサマならきっと殺せる。  カミサマを殺してしまえば、きっとこの痛い生活は終わるのだ。  あたしはそう信じた。なんだかとても息が荒くなって、身体が熱くなってきたと感じた。興奮していたのだ。自分のひどく冴えた思い付きに。もしかしたら訪れるかもしれない苦痛のない未来の可能性に。  その素晴らしい計画を思い立った時、外は霧雨で夜だった。冷たい雨が土砂降りだったなら諦めて一晩明かしただろう。朝か昼に思い立ったとしたら、労働ですべて忘れてしまっただろう。  けれどもこの時は大人のいない夜で、少し寒いけれど泣くほどではない霧雨だった。  あたしはすぐに小屋を出た。昼間薪を割る時に使った小ぶりの斧を握った。  誰かに貰った靴は布を縫い合わせた簡単なもので、すぐに雨に濡れて冷たくなった。けれど、計画を諦める程じゃない。カミサマを殺したら、この村がなくなったら、あたしは皮の靴が履けるかもしれない。そんな都合のいい妄想をしながら走った。頬を撫でるように降りしきる霧の雨を浴びて走った。  赤鳴きシダは村での通称だ。本来はなんという名前なのか、あたしは知らない。このシダの葉は赤くて毒があって、うっかり食べた動物は皆、喉を枯らす程盛大に鳴いて苦しんでから死ぬ。  東のはずれにひっそりと建つ小屋は、赤いシダに締め付けられるように覆われていた。  息を切らせて立ち止まったあたしは、呆然とした。  シダがもっさりと絡みついていて、いままで気が付かなかった。この小屋はひどく古い。古いがとても頑丈で、あたしや他の子どもが寝起きしているような茅や腐りかけた木の小屋ではない。  きちんと石を積み立てて作った壁と、鉄の扉に護られた家だった。  こんな家は見た事がない。村長の家だって、清潔な大人たちの家だって、壁はレンガでも扉や窓の素材は木だ。  錆びた鉄の扉には、更に頑丈な錠前がぶら下がっている。馬鹿なあたしにも、それが鍵であるということはわかる。子供にはとうていあけることができない鍵だ。  いつのまにか、カミサマの鳴き声はやんでいた。  霧雨も上がった。ただ、冷たい雨の余韻が残る中、急激に冷えていく興奮の中、あたしは赤い家の前で立ち尽くした。  夜の闇が動いたのは、どのタイミングだっただろうか。  あたしが耐え切れず泣き出そうと息を吸った時か、それとも、膝をついて天を仰いだときか。……後者かもしれない。だってその影は、見上げた視界を奪う程に大きかったのだから。  あたしは息を忘れた。  ばさり、と風が動く音がした。その風は冷たく湿った空気を揺らし、赤鳴きシダをガサガサと揺らし、あたしの赤い髪を揺らした。  ――カミサマだ。  そう思ったのは、ギラリと光る眼が、とてもきれいだったから。  一瞬しか見えなかった。その大きすぎるなにかは、すぐに赤鳴きシダの奥に引っ込んでしまった……ように見えた。  あたしは追わなかった。握りしめた斧を持ち直し、息を吸った。それが子供に出せる殺意の限界だった。 「……私を、殺すことはできないよ」  声が届いた時、あたしは初めて驚いた。  カミサマはよく鳴く。昼も夜も鳴く。十日鳴かないときもあれば始終煩いときもあるけれど、その声はいつも同じ、切り裂くようなか細く甲高い声だったから。そしてそれは、決してあたしが理解できる言葉ではなかったから。  まさかカミサマが人の言葉を喋るだなんて、そしてその声がひどく落ち着いた優しさを湛えていたなんて、思ってもみなかったのだ。 「きみは幼い。けれど確かに何かを殺そうという気持ちを持っている。とても強い感情だ。だが残念なことにその気持ちを私に向けるのであれば、何もかもが徒労に終わるだろうよ。……私は死なない。だからきみの殺意は報われない」 「…………ひとの、ことばを、しゃべるのか」 「喋るとも。口があり肺があり、言葉を紡ぐ思考と感情がある。人間と同じ発声方法かと問われたらわからないとしか言いようがないがね。さて、ひとつ答えたから私からもひとつ、質問をしよう。きみの名前はなんだね?」  あたしはまた面食らった。当時は子供すぎて『びっくりする』なんてこともよくわかっていなかったけど、確かにこのときのあたしは驚き戸惑ったことを覚えている。  どうしてこんなところにいるのか。何をするつもりなのか。そういう質問が飛んでくるものだと思った。けれど赤鳴きシダにまみれた『カミサマ』は、あたしの名をまず訊いた。  あたしはまず息を吸った。そして腕の力を抜き、斧を持つ手をだらりと下げる。 「リズ。本当の名前はよくわからないけど、あたしは自分のことを、リズだと思ってる」 「聡明な答えだ。名など個の認識でしかないのだから、己が思う単語を名乗ればよいと私は常々考えているんだ。素晴らしい答えをありがとう、リズ」 「……もう一個、きいていい?」 「いいとも。質問は交互が好ましい。次はきみの番だ」  あたしは少しだけ考えてから、言葉を探す。  どうしてこんなところにいるのか。何をするつもりなのか。あなたは何なのか。  そんな大切な質問をすべて飲み込み、息を吸って言葉を吐いた。 「あんたの、名前は?」  思えばこれが、あたしがはじめて他人に対して礼儀を尽くした瞬間だった。  かさかさという音は、赤鳴きシダが揺れる音だったのか。それとも、カミサマの笑い声だったのか。  気持ちのいい声のカミサマは、とても嬉しそうに――そう聞こえただけかもしれないけれど――あたしの愚問に答えてくれた。 「私の名はガタガ。本来の名はきみたちには発音できないが、私はこの名を気に入っているし、私のことをガタガであると認識している。私に名をくれた愚直な人間を、単純に好いているからね。私は私が死ぬときまでガタガであると誓っているよ」  ガタガの言葉はすこし、あたしには難しい。けれど、怒鳴ったりしない。馬鹿にしたりしない。命令でもない。憐みでもない。  あたしをただの子供としてではなく、労働する肉としてでもなく、リズとして話してくれている。その感覚が子供ながらに理解でき、鳥肌の立つような震えが沸き上がった。 「……さて、夜は長い。きみは少々雨に当たっただろう。少しこちらの木陰に入るといい。幸運なことにここには乾いたコートがある。持ち主はいま、コートどころではないからね、きみが使っても咎めないだろうさ」  こちらへおいで、そして話をしよう。  ガタガの声に誘われて、あたしはまんまと分厚いコートの温かさを知ることになった。
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