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さて、困った。
と、今頃彼は途方に暮れて、天井を見上げているだろうか。そして私と同じことを考えているのかもしれない。
さて、――困った。
こちらの手札は相変わらず少ないが、偶然手に入れた鍵はなんと痛ましい子供だ。
私の相棒ならば容赦なく眉をしかめただろう。彼は否定するだろうが、彼の本質は優しさだ。私には理解できない人間故の脆くあぶなっかしい愛情。それを貫くために、あえて彼は人間を厭う傾向がある。
人は、目で視認し耳で言葉を聞き、口で感情を吐露する。相手が目に見える場所にいなければ関係性は築けない生き物だ。オズワが一人で行動したがるのは、誰とも関係を持ちたくない――つまり、人間を巻き込む気がない、ということだと私は知っている。
とはいえ、私にできることは少ない。
太古の神獣であったとしても、人間のようによく動き曲がり器用に物を掴む指はない。小さく目立たぬ身体であれば、どれほど楽な旅だろうか。……まあ、私の身体が小さく地を駆けることしかできぬなら、我々の旅はもう少しゆるやかになっていただろうが。
いまは、人の足よりどんな馬車よりも速く飛べる羽が、邪魔で仕方がない。
中央大陸の端の寒村にたどり着いたのは、十日間ほど前のことだった。
私達には目的がある。しかしその手がかりといえば、ひどく乏しく心許無い。
五十年程前に一度栄えた双子管硝子による遠隔通信網は、中央大陸が新たに打ち出した宗教に否定されすっかり廃れてしまった。情報の伝達は遅い程、人々は長く愚鈍に平和に暮らせる。どうも、そのような意図が働いたと見える。
人間の文化の発達に関して、私は特に思うことはない。
栄えるにしろ、滅びるにしろ、私には関係のないことだ。ただどんな結末だったとしても、オズワが泣くことがなければそれでいい。そう思う。
……とはいえ、もう少し本格的に燃料問題と通信の発達には力を入れるべきではないか。これは人類の未来のための警告ではなく、単に私とオズワの道行の効率をよくするための傲慢な意見だ。
オズワは時折、街に住み人々の会話を盗み出す。信頼を得て聞き出すこともあれば、酒場で、市場で、集会場で耳をそばだてることもあるという。
姿を隠せない私は勿論その間、人々が寄り付かない場所でじっと隠れる必要があるが……そんな時は決まって捨てられた集落や廃墟となった街を巡り、古い本や故人の日記を求めて徘徊した。
そんな努力を数年続け、やっと目標にたどり着くのだ。
今回も随分と長い旅路だった。
この村は基本的に外に開かれておらず、近隣の街ですら村の存在を知らなかった。知らないものは語れない。語られないものは、私の目にもオズワの耳にも入ってこない。
宣教師の荷物を運んだという日雇いの男に出会わなければ、あと数十年はこの村の存在に気が付かなかったかもしれない。
私とオズワがこの寒村にたどり着いた日、あたりには濃厚な霧が漂っていた。
なるほどこの霧もまた、村を隠す要因だったのだろう。きちんと気配を追っていなければ、隣を歩くオズワですらも見失う程の視界の悪さだ。
村の東側から森を抜けた私達は、比較的容易にその小屋を見つけることができた。
赤い葉の植物が、守るようにどっさりと覆いかぶさっていた。オズワは『ニセカゴシダかなーこの辺の通称は知らないけど』と言っていたが、私にとってはただの無害な草でしかない。
勿論、その赤い植物に毒が含まれていることは承知していた。しかしながら、私とオズワが抱える大量の命の前では、些細な切り傷程度の痛みでしかないのだ。
毒の草で守られた、石と鉄の小屋。その中に、我々が次に『殺すべきもの』がいる筈だ。
しかし残念なことに、オズワも私も鉱物に歯向かえる程の力は持ち合わせていなかった。
どうにかしろ伝説のドラゴンだろ、きみがどうにかしろ器用さを誇る人間だろう、と小一時間口論したものの、私もオズワも『他の住人に気づかれないように小屋に侵入する』手法に心当たりがなかった。壊せと言われれば壊すことはできるだろう。しかし、無音で、と条件を付けられると途端に私は無力になる。
まあ、焦ることはない。
何しろ向こうも私達も、しばらくは死ぬ予定はないのだから。
そう思い直し、とりあえず出直そうとしたのだが。――この村の人間は、外からの敵に対して大変目ざとかった。
慢心していたわけではない。ただ、必要がなければ殺す必要はない、と私とオズワは考えていただけだ。だから私は赤い髪の村人に囲まれた時、霧に紛れて逃げ、オズワは抵抗することなく連行された。
私は村の外でひたすらに機会を伺い昼は観察し、夜は少々徘徊して時を待った。
わかったことは少ない。
この村は自給自足を貫き、他の世界との交流をほとんど断っていること。
この村の裕福層は時折貴重な家具や資源を仕入れに出かけるものの、その他のほとんどの村民は農業を生業とし、ひどく貧しくみな痩せこけ、裕福層以外の人間の髪は赤茶色であること。
東の端の石と鉄の小屋はどうやら忌まれているらしく、そこには日中ですら人が寄り付かないこと。
村を観察して三日目で、見回りの人間も東の小屋を避けることを知った私は、これ幸いと小屋の周りをねぐらとした。オズワは恐らく村の中に捕らわれているはずだ。彼が勝手に死ぬことはない。しかし、彼が苦痛を与えられている可能性は否定できない。
私はなるべくオズワの近くにいなくてはならない。
それはオズワを案じているからではない。オズワの苦痛が続くなら、彼が私を呼ぶなら、すべての人間を殺して彼を牢獄から引き上げるため、一息でかけつけられるようにだ。
そうしてねぐらを決めて十日後の霧雨の晩――そう、今日だ。
私は、小屋の前で鉈を握りしめる子供を見つけたのだ。
子供はリズと名乗った。
学校などないだろうに、教育など誰も施していないだろうに、日々食べることさえままならないだろうに、驚くほどに聡明な受け答えだった。知識はなくとも、自我がきちんと存在していた。
リズは年の割に背が高かった。
体力仕事をこなしているためか、痩せてはいるものの美しい筋肉の付き方をしていた。しなやかなブラックドッグのような……いや、あれは半世紀前に絶滅しただろうか。とにかく、走ることが得意な草食動物のような子供だった。
リズという名の子供が雌である、と気がついたのは言葉を交わし、彼女を私の翼の下に招いてからだった。
まあ、彼女だろうが彼だろうが、私にとってはどうでもいいことだ。重要なのはリズが、この村をひどく憎んでいたことだけだ。
オズワの防寒用のコートに包まった少女は、そのコートの中でまだ、鉈を握りしめている。
「……殺せない、って、ほんとか?」
リズはおそるおそる、といった風に声を零す。掠れた、少年のような響きの声だ。おそらく普段、人と話すようなことがないのだろう。使わない声は、次第に艶を無くすものだ。
「本当だとも。私は死なない。炎も刃も水も、私の命を奪うことはできない。だからきみが抱える使いこまれた鉈も、無意味な武器だ。放り投げろ、とは言わんがね。身を護るすべはいつだって手放すべきではない。……きみは、何かを殺したいのかい?」
「誰でもいいわけじゃない。あたしは、カミサマを、殺すんだ」
カミサマを殺す。
力強く、そして痛ましい決意が滲む声だった。
「この村があるのは、カミサマのおかげだって言う。大人はみんな、そう言う。だからあたしは、カミサマを殺して、村を、終わらせるんだ」
「……成程、筋は通っている。きみはこう教えられた。あの赤いシダに隠れた頑丈な小屋に、大事な大事なカミサマが住んでいる……」
「おまえがカミサマなんだろう?」
「……さあ、どうかな。そういう風に呼ばれた時も、まあ、なかったとは言わないがね」
遠い昔の感傷に浸っている場合ではなかったので、私はすぐに思い出を振り払う。彼女が抱える鉈が、私の喉元を切りつけても、私は死なないだろう。肉は再生し、生命はひとつも零れることはない。ただ、ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。それに、私はもうすっかり腹をくくっていた。
彼女を巻き込み、彼女を誑かし、そしてオズワにひどく憤慨され罵られる覚悟だ。
私はできるだけ冷静に声を選ぶ。ほんの少しの罪悪感は、オズワの優しさが移ってしまったからだろう。
「きみがカミサマを殺したい、というのならば手伝うことはできない。残念ながらそれは、きみには成し得ないことだ」
彼女の目には、暗闇の中の私は見えていないのだろう。見当違いの方向を見上げた少女は、眉を寄せたようだった。殺意がほんの少し濃厚になる。存外に怒りっぽい性格らしい。
「…………ためしてみなきゃ、わかんない。自分でやったことしか、あたしは、信じない。大人はいつも嘘をつく」
「素晴らしい心がけだ、リズ。だが何度その鉈を振り下ろしても、カミサマは死なない。きみが信じないとしても私はもう一度言おう。きみには、無理だ。――けれど私は、きみの代わりにカミサマを殺せる男を知っている」
あの男は怒るだろう。とても、とても、怒るだろう。半年程度は満足に口をきいてくれないかもしれない。そのくらいは覚悟しよう。
オズワは、自分のせいで人間が不幸になることを嫌うのだから。
自分の、自分たちの、死なずの街の死なずの人間たちのせいで、人間が不幸になることを、嫌うのだから。
「さて、賢い子供、リズ。私はきみに、ある男を助けてもらいたい。ただしその行為は恐らく、きみの人生を大きく捻じ曲げてしまうだろう。後からおおいに後悔するかもしれない」
「……そいつが、……そいつを助けたら、カミサマを殺せるのか? おまえは、カミサマじゃないのか?」
「似たような存在ではある。だが、きみが殺したいと願う村の救世主ではない。それは、この頑丈な小屋の中にいる」
「…………それじゃあ、あたしの人生は、変わらない。だってあたしはもともと、カミサマを殺すつもりだったんだから」
すう、と細められた目は、痛ましいほどに本気で、私は早くも彼女の感情を煽り立てたことを後悔し始めていた。
……怒るだろうか。ああ、怒るだろう。彼の口から零れる無駄な言葉の欠片まで怒りで満ちることだろう。それは私にとってひどく痛い仕打ちだが、しかし。
彼が、少しずつ苦しむよりは、ずっといい。
死ななくとも痛いのだから。なによりこの村は、私が恐れる禁忌を、すでに犯しているのだから。
カミサマなのかと少女は問う。カミサマのようなものだ、と私は答える。全く持って笑えない問答だ。こんなに身勝手で、博愛などという言葉と無縁の私が名乗るべきは神ではなく、死神だろうと自嘲した。
私の顔は表情というものに対応していない。笑ったところで、泣いたところで、私の表情を唯一くみ取れる男はいまここにはいない。
そもそも暗闇の中では、誰の目にも映らないだろう。
私の自嘲は闇に消え、ただそこには雨の余韻と少女の痛ましい興奮が残るばかりだった。
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