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夜。
隣で寝息を立てている妻の姿を見ながら正樹は思う。
彼女は今もまだ、文学青年が愛する作家の死を悼んで涙を流していたと思っているのだろうか。
当時の彼女はそれほどに純粋だった。
「あの時……なぁ」
思い出すだに苦い記憶。
あの当時、大学生だった正樹は、近所の本屋で働く田原紗枝という女性店員に恋をしていた。
年は同じぐらいだっただろうか。
可愛くて、はきはきとした気持ちのいい接客だった。
ある程度親しくなってから知った。紗枝は川端康成が好きなのだと。ならば自分も読まねばなるまい。文学青年でも何でもなかった正樹だが、なぜかこの時、猛烈な使命感に駆られた。
紗枝の働く書店で本を購入し、近くの公園でベンチに座って読んだ。
家では絶対に読まなかった。
家族に知られるのが恥ずかしかったからだ。
川端康成の世界は、正樹をこれっぽっちも魅了しなかった。紗枝との話題作り。ただそれだけだった。
あの日、正樹はいつもの様に書店へ足を運んだ。そろそろ食事に誘ってもいいかもしれない。そんな事を思っていたほど、紗枝との未来を前向きにとらえていた。だが、紗枝に話しかけるなり、衝撃的な一言を耳にする。
「私、結婚するからお店辞めるんだ」
目の前が真っ暗になった。
気が付くと、あのベンチに座っていた。目から涙が流れ落ち、心配そうな美香が正樹の顔をじっと見ていたのだ。おめでとう、と言ったのかどうかすら定かではない。美香によれば、どうしたのですかと尋ねられて、世を儚んでいたと答えたらしい。
まあ、確かに儚んではいた。それにしても、酷い回答だ。だが、美香の心には随分響いたらしい。
それ以来懐かれた。紗枝との繋がりをなくし、半ば自暴自棄になっていた正樹は、そのアプローチを受け入れた。すぐ別れる事になるだろう、と付き合い始めた当初から考えていた。
だが、いつの間にか美香の事が愛おしくなっていった。状況に感情が追い付いたと気付いた時、正樹は美香に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
この事は一生自分の中に封じ込めよう。そして、彼女を精一杯幸せにするのだ。自分にはその義務がある。正樹は夜空に浮かぶ月にそう誓った。
その誓いを守り通し、美香は今、正樹にとって欠かせない人になっている。
「愛しているよ」
暗がりの中、眠っている身かに小さく囁いた。
「うへへ……」
寝ぼけた声で、小さく美香が笑う声が聞こえた。
幸せだ。
言葉を噛み締めながら、正樹は目を閉じた。
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