1.昏睡

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 僕は彼の設定を思い出していた。  確か彼は70歳で船を降りてから数ヶ月、その退屈な日常の中で漠然とした不安を感じていた。私がこれまでの人生で得たものは何か、あるいは失ったものは何かということについて。  ところがいくら悩んでもそれらの答えが出るわけもなく、もともと無趣味だった彼は一人で釣りをすることにしたのだ。  彼はその最中にもそんなことを考え続けていた。多分今も考えていることだろう。彼がある決意をしてからは、ああして猫背をして竿を垂らすことはない。  自分の人生にけじめをつける。それはあまりにも抽象的であったけれど、彼はそれさえすればどこか納得する自分が産まれるような気がしていた。  その結果、彼は幸せを釣る決意をする。それが彼の出した結論だった。  この町の神様と呼ばれる虹色のフッコ。彼はそのフッコを釣り上げるという目標を立てたのだ。そして彼の姿勢は綺麗に朝焼けに映える。  けれど彼は物語の末までそれを釣りあげることは叶わなかった。しかし、夢を追い続けた彼の老後は、何よりも幸せだったのだと文末に飾られる。  それは僕が昔に書き上げた小説だった。そして僕はその小説を気に入っていた。ただ何故今、僕の意識がここにあるのかは検討もつかなかった。睡眠薬中の成分に、幻覚作用するものが含まれていたのかもわからないが、今はそれを確かめる術もない。  僕が彼に話しかける為に足を前に踏み出すと、どこからか一羽のカラスがやってきて僕の肩に止まった。そのカラスはとても紙くさいカラスだった。  「変化以外に永久なものはない」カラスはそう言ってまた空へ飛び立っていった。  それはヘラクレイトスの言葉だった。僕はつまり変化こそ永久なるものだという風に捉えることにした。その時の僕は多分、ほとんど余裕がなかったのだろうと思った。
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