1.昏睡

3/4
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 固定された物語の中で、僕の身体はまったく彼との距離を縮められなかった。歩けども歩けどもそれは写真のように景色を変えることはなかった。  一考して僕は足を止めた。そして振り向く。  するとそこには死骸のように横たわったカラスが一匹、アスファルトの上で寝ていた。周りには取れた羽が散乱していた。  僕は屈んでそのカラスを手で掬った。その脇で散らばった羽をよくよく見ると、白く汚れた箇所が何枚かの羽についているのが見えた。僕はその羽を片手で一つつまみあげると、それはどうやら文字だった。  コギトエルゴスム  と読めるような気がした。多分、デカルトが書いたものだろう。  すると手に抱えていたカラスが急に目を覚まして、僕の手の平の上で羽をバタつかせた。  僕が咄嗟にカラスから手を引くと、カラスはその去り際に「全てを疑え」と残して飛んでいった。それはマルクスの言葉だった。どうやら僕はまだ、変化を受け入れられていないみたいだった。  僕は身体を起こしてから、飛び去っていくカラスの後ろ姿を目で追った。カラスはユラユラと旋回しながら手を招いているようにも見えた。  その時僕の頭の中に、ある疑問が唐突に過る。それは固定された物語に変化を与えることが、またどういう変化を産むのかという疑問だった。  もしかしたら僕はとても危険なことをしようとしているのかも知れなかった。  足してここはデータの中か、あるいは本の中か、それとも頭の中かも確定していない。僕はその中で彼の物語に何らかの変化を与えようとしている。そう思うと僕はさっきまでの自分に覚悟がなかったと悟った。  確かに。  ただ僕は彼に話しかけたい衝動に滅法かられている。それが何故かはわからない。  胸の内から湧き出る泉のように、僕はそうしなければならないという責任めいたものが、僕の心を満たしていた。  僕は彼に話しかけるのだ。それは固定された過去だ。そう僕が僕の言葉によってそう結論付けている。それは変化が永久なるものであることを僕が認識してしまった弊害であるような気もした。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!