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2.混濁
「わずかなものに満足出来ない人は、何を持っても満足出来ないものだ」と言ったカラスは、彼のバケツに入った小魚をついばんでいた。エピクロスはただ、欲望の持ち方について記しただけであって、欲望そのものを否定したわけじゃない。
「吟味されざる生に生きる価値なし」と言ったカラスもまた、彼の隣で釣糸を眺めていた。ソクラテスは生に価値を見出だそうとしていたようだ。そして彼もまた同じように、自身の人生に価値を求めていた。
「君が来てからずっとこんな調子だよ」と彼は大きく溜め息を吐いて言った。そう残念がる彼に、僕はどんな言葉も返してやることが出来なかった。
次に、「あの岩場の陰に、大きな図書館でもあるのかい」と彼は僕に聞いた。
「いや、僕はそんな描写をした覚えはない」と返した。
そう言うと彼は優しく笑って「そうだろうなあ」と漏らした。「でも」と続いて彼は、「そうやって返事をしてくれるとありがたい」と僕の方をようやく向いて言った。
彼の顔はほとんどのっべらぼうだったけれど、彼の物語においてそれは、ほとんど必要のないことだった。
「もうあまり話したいこともないんですよ」
僕は藪から棒にそんなことを言っていた。水面はまだゆっくりと光を散らしている。青空には小さい綿飴のような雲がいくつか浮いていた。
「私も同じだよ」
「でも僕は、」言葉が詰まる。
「でも僕は、」出てこない。
「落ち着いて」と彼はまた釣竿のしなりに目線を戻した。
「ああ……」と漏れた声が教えてくれた。
その時、僕は泣いていたのだ。
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