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ぼんやりとした意識の中で、僕は彼の喜びに満ちた顔を思い出していた。僕が初めて賞をもらった時のようなあの表情を。あの嬉しさを、僕は両手で囲むようにして思い出していた。
すると、「死は人生の終末じゃなくて、生涯の完成」とどこかで優しい女性の声が聞こえた。
僕はうまく力の入らない身体をどうにか捻り起こした。そこには白衣を着た女の医者がウィトゲンシュタインの本を抱えて座っていた。
「ルターか」
「そう、マルティン・ルター。あなたは哲学者が好きなのね。うなされながら哲学者の名言を口にする患者なんて、私初めてよ」と彼女は微笑んだ。
「魅力的でしょ」と僕はなげやりに告げて身体をベッドに戻した。
「ある、意味、ね」
「はあ……」と息が漏れた。僕はどうやら現実に戻ってきたらしかった。多分、僕はこの女が登場するような物語は書いていないし、今の会話にも聞き覚えなどない。
「あなたって、小説家なんですってね。さっき看護師の子があなたのことを知ってるって言ってたわ」
「昔昔、大昔の話ですよ」
天井は白かった。もし僕がそれを白紙とするなら、次の瞬間には何千字も書かれていたはずだ。黒い一つ一つの文字が姿を変えて、やがて一羽の黒い鳥となって読者に向かって飛んでいく。それはあるいはカラスでもいい。
「さぞかし大変な仕事なんでしょうね。仮に大昔だとしても。とにかく、まだ安静にしなきゃいけないわよ。あなた自殺未遂なんてしたんだから」
僕は「冒険家の癖があって」と天井に言って聞かせた。
ゆっくりと彼女が立ち上がった気配を感じると、人型の影が僕の視界にぼんやりうつった。それは次の瞬間、甘ったるい花の匂いと、切なくなるくらいの体温で僕を抱き締めていた。
「あなた、うなされながらずっと泣いていたわ。大丈夫、私がついているから。今はゆっくり身体のことだけ考えなさい。それと、寂しかったら呼びなさいね。哲学は私も好きなのよ」
彼女はそう言ってしばらく、僕を彼女の一部にしてくれていた。僕の目蓋は自然と力を失っていった。薬の作用とは似ても似つかない温もりのある眠気だった。
微かに残る意識の向こう側、その耳元で、とても力のある「おやすみ」が聞こえた。
了
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