0人が本棚に入れています
本棚に追加
「――おやすみ」
誰ともなくそう告げ、私は布団から身を起こした。
体に馴染んだ癖のように自然と部屋の時計に目をやる。きっかり、6時48分。それを認めた私は立ち上がり、流れるように部屋着を脱ぎ去っていく。
身に纏うものが下着だけとなっても構わず顔を洗い、無駄なく身支度を整えていく。特に誰に見られるでもない。強いて言えば鏡の向こうにいる無表情な女だけだ。
鏡に映る貧相な身体に見飽きた私は、着古した仕事着に身を包み、冷蔵庫から栄養ゼリーを取り出して一息に飲み下した。
「それじゃあ、行ってきます」
誰も居ない部屋の中に向けて声をかけ、家を出た。
穏やかな朝日を浴びながら街を歩く。大通りにも関わらず、周りに人はほとんど居ない。雑踏という言葉は何年も前に死んでしまった。
通りに隣接された大型モールの巨大モニタにはニュースが映し出されている。キャスターのAIが飽きもせず、やれ地球環境の改善だの、やれ新たなAIモジュールの発売だのと毎日似たようなことを発信している。
当然ながらそれに何の興味もない私は、モニタに一瞥もせず、職場へ向けて歩を進める。ただ作業的に。ただ義務的に。
***
「ただいま」
夏至を過ぎ、だんだんと早まってきた日没よりも早く、私は帰宅した。
一仕事を終えた身体を労わるように(と言っても仕事のほとんどはAIがやるので私の負荷は少ないが)、部屋の中にある数少ない家具であるリラックスチェアに身を沈める。
「ふぅ……」
短く息を吐く。仕事に不満があるわけではない。むしろ、少ない労力で安いとはいえ生活は問題なく出来る程度の給与が貰える今の仕事を私は気に入っている。
ただ、そう、やりがいなんてないし、情熱も持てない。ただただ作業的だ。
「生きる為だもの、仕方ないね」
それは身体を機能させる為に必要な作業だ。カネが無ければこの身体にエネルギーは与えられないし、生きる為の電気代も賄えない。
「……おっと」
少しのんびりしすぎただろうか。時計を見ると6時ちょうどを差し、余り時間の余裕はない。
「さっさと済まさなきゃ」
言いながら立ち上がり、明日の仕事の準備や、身体の洗浄、加えて朝昼と同様に栄養ゼリーでのエネルギー補給をこなしていく。
そして一通りこなすと、私は迷いなく布団に潜る。
時刻はきっかり6時48分。我ながら機械的だ。
そしていつものヘッド型デバイスを頭にはめ、私は漸く眠りに入った。
***
「あら、おはよう」
目を開けると目の前にはつい昨日顔を合わせていた友人が居た。
「……人の家で何やってるのよ」
「あんたんちコミックデータが豊富だからねー。暇つぶしにはもってこいなのよ」
だからと言って勝手に人の家で読むのはどうなのか。家の入室許可も、コミックデータの閲覧許可も与えたのは私だけど。
「暇人ね……」
「そういうあんたは忙しそうね。どう? 現実の方は」
「何も変わらないわよ。何もない、ただの身体のメンテナンス用の世界だわ」
言いながら、部屋のカーテンを開け放つ。そうすれば陽光データが部屋の中に差し込んだ。
窓の向こうに広がる広大な“空間”。そこでは多種多様な家が宙に浮かんでいる。私のような古風溢れる2000年代の日本式の家や、欧風のレンガ造り、果てはお城まで(クリエイトにいくら掛かったのかは知らない)。多種多様千差万別な生活空間が、文字通りの無限の空に浮かんでいる。
そしてその合間で宙を駆け、楽しそうに話している人々、或いはその間をクルマで走り抜け、レースもどきをして遊んでいる人までいる。
すぐ目の前をクルマが走り抜けていっても、怒る人は居ない。危険など無いからだ。当たったところでデータなのだから怪我もしないし死にもしない。
「――で、あんたはいつになったらメンテフリーになるわけ?」
レースもどきに混ざりたい衝動に駆られていると、横から声を掛けられる。
「そろそろだと思うんだけどなぁ」
現実での身体にエネルギーを自動補給し、常設デバイスを装着することで、ずっとここに居られる夢の施設、次世代型共有空間回線なんとかかんとか。通称、境界。
何世代か前からAIに切り替わった世界大統領の政策で、抽選で当たった人から無料でその施設に招待される。
そうすれば煩わしい現実で働く必要もなく、ずっとこの世界に居ることが出来る。
そう、ここは人の夢を繋げたオーバードリームワールド。人は傷つくことなく、いつでも空を浮かび、データさえあればどんな娯楽も体感することが出来る。
食事は栄養補給でなくただの娯楽となり、働く必要もない。この世界でごく一部の有料コンテンツを購入するため、たまに働くくらいだ。
人は、“人間”は、総人口の99%がこちらへ移住した。自由の利かない現実はAIに任せ、自由しかないこの世界を新たな現実とした。
「……良い時代に生まれたもんだね」
「ん? なんか言った?」
コミックに集中していた友人がこちらを向く。敢えて言い直すことでもない。
「なんでも。それより、遊びに行こうよ」
「良いけど、なにすんの?」
コミックデータを非表示にしながら立ち上がる。
「んー、まぁ、なんでも出来るでしょ」
言いながら、玄関扉を開け放つ。夏至はまだ過ぎたばかりで、暑さのデータが肌を刺した。
「あ、そうだ」
昔から、おばあちゃんに言われていた。挨拶はきっちりしなさいと。なんでも自由な世界でも、“人”は大切にしなさいと。
「カガミ、おはよう。」
そして、おやすみ、現実。
最初のコメントを投稿しよう!