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「はあ、眠いねえ。」
読んでいた本をぱたりと閉じる。横を向くと、ソファーの上で丸まった大きなゴールデンレトリバーが、ふわりと欠伸をした。明るさを落としたオレンジ色の灯りに照らされて、毛皮がつやつやと光っている。
『俺も、眠い。』
ゴールデンレトリバーが、とろんとした目で頷き、返事をした。彼は、私の恋人だ。普段は人間の姿だが、月が出ている夜は、こうして犬に姿を変える。愛くるしい犬の姿をしているにもかかわらず、低くあまい声で話すものだから、なんだか可笑しい。
「もう寝よっか。十一時だよ。」
寝室に布団を敷くと、彼は布団の隅にころりと丸まった。私は、カーテンを細く開けて外の光が少し入るようにする。完全に真っ暗な場所は、私も彼も苦手なのだ。
…ぱたっ。
彼の尻尾が、静かに布団を叩いた。早く、と言っている。
「はいはい。本当の犬じゃあるまいし、ちゃんと言葉で言ってよね。」
彼のお腹のあたりに額をつけるようにして、隣に横になる。彼の呼吸に合わせて静かに上下する柔らかいお腹と、人間より熱い体温が、湯たんぽのようで心地よい。
「今日は、スーパームーンなんだって。ニュースでやってたの、見た?」
『うん。』
「お月さまって、いいよねえ。太陽ほどあっつくなくて、でも星より冷たい感じでもなくて。」
彼の横腹の毛が、もふもふと気持ちが良い。
『星は冷たいのか?』
「うーん、そんな感じがしない? 太陽は、茶髪のポニーテールとミニスカートが似合う溌溂とした女の人で、星は黒髪ロングヘアにパンツスーツが似合う女の人って感じ。」
『ふうん?』
彼は口数が少ない。でもそれは、たった今吸収した言葉を心の中で咀嚼しているからだと、私は知っている。
「月はね、お淑やかな雰囲気の、上品なワンピースとハーフアップが似合う柔らかい人って感じ。いや、ワンピースじゃなくて和服かなあ、あ、それはかぐや姫か。」
ふっ、と彼が笑った。身をよじって顔を見ると、目を細めて優しい表情になっている。心なしか口角も上がっているように見えた。
『そういう夢見がちなところだよな。』
「…なにが?」
『月みたいなところ。』
誰が? と訊く前に、彼は『おやすみ』と言って目を閉じてしまった。
「もう、なんなの…。」
私も毛布を体にかけて寝ようとすると、不意に彼の言葉が降ってきた。
『今度一緒に出かける時はさ、あの花柄のワンピース、着て欲しいな。襟がついてる、ちょっと大人っぽくて上品なやつ。』
彼の言わんとしていることが分かって、私は赤面した。そして、辛うじて冷静さが残っていた頭の片隅で、「デート」ではなく「一緒に出かける」というところが、彼らしいと思った。
「…いいよ?」
『…あれ着てる時が、いちばん、かわいい。』
その掠れ声のひとことで、もう私の頭の中は真っ白になった。彼がそんな言葉を口にすることは、スーパームーンよりも珍しいから。
「犬じゃない時に、言ってよ…。」
そうしたら、堂々と真っ赤になって照れることができたのに。犬に気障なセリフを言われて恥ずかしがるなんて、少し悔しい。鼻先を、彼の毛にうずめる。
照れたりふてくされたり、ちょっと嬉しくなったりしながら、私は今度こそ目を閉じた。
私たちの関係は恋人だけれど、彼は「普通」とはだいぶ違って。ただ、太陽みたいに力強い光じゃなくていいから。星みたいに、何億光年も先を鋭く貫く光じゃなくていいから。月みたいに柔らかくぼんやりと、欠けたり満ちたりしながら、彼の光になれたらいい。
「犬でも人間でも…、『月が綺麗だね』。」
好きだよ、っていうのは、やはり、ちょっと恥ずかしかった。
目を閉じたまま、彼の口元が緩くほころんだ。
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