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女性の身元は容易く判明した。もちろんそれは勇吾の家柄と財力があったからに他ならないのだけれども、勇吾にとってはいささか拍子抜けしたといえばそうだった。
地味な女だ。最初に頂いた感想はそれで、続いて気になったのはその間の抜け具合だった。空気がゆるんでいると言い換えてもいい。こうして見知らぬ男が目の前の席に腰掛けたというのに、それほど驚いた様子も怯えた様子もみせない。
何だったら恐怖に顔を歪ませてくれた方が勇吾は愉快になれた。
「どうも」
「……」
「俺は小鳥遊勇吾。あんたが白江静子だな」
「はい」
「高来大学二年。十九才。専攻は哲学か。典型的な中流家庭で家族は両親と弟が一人。大学では浜田千春、丸山澪との交友関係がある。社交的ってほどじゃないが、それなりに人付き合いもする。小学校から習っているピアノは今でもサークルで続けている」
「それ」
「調べさせたんだ。あんたのこと」
勇吾はファイルされた紙の資料を机に投げた。
「俺の恋人をたぶらかした女がいるって聞いてさ。さぞ良い女なんだろうなって期待してたんだが……がっかりだわ」
「はぁ」
静子はカフェラテに口をつける。機嫌を損ねた訳でもなく、傷ついた態度も見せない。とはいえ別に無反応でもない。今までで経験したことのない反応にかえって勇吾の方が戸惑う。
「小鳥遊さんでしたっけ。あの小鳥遊鉄道の小鳥遊さん?」
「鉄道だけじゃない。電子機器、美容、スポーツ、通信、ほとんど何でもだ」
「うちの大学でも有名ですね。私の周りでもみんな噂してますよ」
「ああ、そう」
「すいません、小鳥遊さんって葛西先生の講義って受けたことありますか?」
「はぁ?」
葛西というのは経営学を受け持つ講師だ。右の泣きぼくろが印象的な三十半ばの男で、教授からも随分目をかけてもらっているらしい。
「受けたことありますか?」
「あるよ」
「それじゃあ単位の上手い取り方教えてもらえませんか」
「いや」
「ちょっと怠けすぎて落としそうなんです」
奇妙な女だった。勇吾は静子と別れてからすぐ車内に待たせていた瀬尾の所へといった。
ドアを開けると助手席にいた瀬尾が勇吾にもたれかかる。
「ねぇ、どうだった、どうだった?」
「……変な女だった」
「変?」
「なあ、お前、あの女の何がそんなに気に入ったんだ」
勇吾が尋ねると瀬尾はきょとんした顔をする。
「分からない。だけど何だか惹かれたんだ。周りの人なんか目に入らなくて、世界の中で彼女だけが視界に入った」
答えになっていない答え。要するに一目惚れというものだろう。勇吾には理解しがたいことだが、あの少女はどうやら魔術か妖術の類でも使えるのかもしれない。
「それで条件はもういいんだよね?」
「ああ」
勇吾が出した条件とは、瀬尾よりも先に見つかった女性と勇吾が会話をするという提案。端的にいえば勇吾は威圧さえすればどんな相手でもすぐに挫けるだろうという目算があったのだがその見込みもはずれた。
「それじゃあ僕、彼女に会ってくる!」
意気揚々と喫茶店へ入っていく瀬尾の後ろ姿を見送りながら、勇吾は考え込んだ。先ほど店内で話した静子の様子が脳裏によみがえる。車のフロントガラスに水滴が当たる。しとしとと細く降る春雨が訪れていた。
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