椎名散華の葬式

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椎名散華の葬式

 クラスメイトの散華が死んだのは真夏だった。死因は窒息死で、睡眠薬を大量に飲んで死んだらしい。部屋には百合の花が床いっぱい敷き詰められていたという。  『百合の花を大量に置いた密室で眠ると、百合の花の呼吸によって窒息死する。よって、花に囲まれて死ぬという、最も美しい形での自殺が成立する』という話を現国の熊川先生が言っていたのは、中島敦の「山月記」だったか、または夏目漱石の「こころ」だっただろうか。そんな記憶を、散華のために詠まれる経を聞きながら、頭の片隅でぼうっと考えていた。百合の花での自殺は実用的ではないらしかった。百合の毒なので死に至るわけではなく、酸素濃度不足で気を失うように窒息するそうだ。それはつまり、窒息するほどの数の百合の花が必要になるし、部屋を完全密封することもまた難しいという。楽に美しく死ねる方法などこの世には存在しないから、安易にそんなことを試さないように、というのが熊谷先生の広義の本質だった。  散華の葬式は、ただっぴろい、古い日本家屋の自宅で行われた。線香の煙と、木魚の規則的な音と、大量の花の匂い。じわじわと、室内の気温が上がっているような気がする。学ランの首に汗が落ちた。このまま続けば、きっと白く汗染みができてしまうだろう。他人の泣くのをじっと聞くのは、小学校低学年のころに亡くなった曾祖母の葬式以来だ。僕の近くにいるクラスメイトたちの一角が、大きな黒い生き物のように同じ動きですすり泣いている。僕の身体もその一部に巻き込まれて、孤立しないように肩を震わせた。 『おまえはいいな、ヤガミ』  散華はときどき、僕に向かってそう言った。トイレで隣同士になったり、体育の時間にチームメイトになったり、掃除の時間に同じ場所を掃除するときになると、散華は適切な距離で僕の隣に立ち、他愛のない話を、その温度のない声色でした。あれはきっと、クラスに馴染めていない僕への気づかいとか、多くを言わないような誰かと話したかったとか、きっとそんなものだったのだと思う。  散華はクラスでも目立つ存在だった。いや、目立っていた、というジャンルで括るとしたら、学年でも学校でも、ともすれば街の中でも目立っていた。軽音部で組んでいたバンドでボーカルをやっていて、隣町のライブに参加していたりしたし、制服を気崩してピアスをたくさん開けていてお洒落だった。騒ぎ立てる周りに対して本人はクールで無口なタイプだったけれど、友達も多かったし、毎日楽しそうだった。少なくとも、僕のように用もないのに毎日図書室に居たり、昼時にひとりで弁当を食べたりしなくてもよかった。特に散華には親しい部活の仲間がたくさんいたし、後輩にも慕われていた。 「散華、散華」 「ばかやろう、なんでだよ」 「まだ高校生だったのにね、可哀想にね」  焼香が終わったあと、僕はクラスメイトの集団から一人離れて、トイレへ行こうとした。家族の人たちは弔問客の相手に忙しくて、僕はそこへ紛れて彼の家の中を探索し始めた。散華の家系は伝統工芸品の旧家だったらしく、地元では有名な一家だったらしい。田舎の大きな日本家屋の部屋の奥は、この暑い夏も遠い世界のように感じるほど静かに澄み切っていた。軋む板張りの階段を上って、とある和室に足を踏み入れると、庭園に佇む大きな松の木が、夏空とのコントラストを映して、景色を切り取った写真のような美しさが広がっていた。 『おまえはいいな、ヤガミ』  散華の声は、僕の耳元にいつまでもこびりついていた。僕は彼の夏の噴水のように澄んだ声が好きだった。彼はいつももの静かだったけれど、ステージに立って歌う姿はまるで神様だった。彼は他人が羨ましがることを、すべてその手に持っていた。誰もが彼を称賛し、羨望し、憧れて嫉妬した。彼がその姿でその声で歌い始めると、その空間に居る誰もが固唾を飲んで、彼のその歌に酔いしれる。感覚を奪われる。彼のことだけしか、考えられなくなる。 僕はそのとき、目と鼻の先、松の木の半ばに誰かが腰掛けていることに気づいた。学ランを着ていたから、もしかして自分は散華の魂を見かけたのではないかと思って、「散華」と叫んでしまった。途端、その学ランの生徒が顔を上げて、大きな目でこちらを見た。彼は僕を見止めると、枝を伝ってこちらへ移動してきて、唖然としている僕の目の前に着地した。  その顔には見覚えがあった。後輩のアスカだった。放送委員会で関わったことのある彼は、日の当たる加減によって金に見える色素の薄い髪と、睫毛の濃い大きな目が特徴の、やたらと目を引く美少年だった。僕はアスカの陶器のような冷たい美しさがなんとなく苦手で、あまり深くかかわらないようにしていた。 「ヤガミ先輩、こんにちは」  アスカはそう言うと、明らかに作った笑いを浮かべた。その顔は能面のような気味の悪さと美しさが共存していて、僕はアスカから無意識に目を逸らした。 「なにしてるんだ、こんなところで」 「なにって、家探し。ヤガミ先輩こそ、人んちでなにしてんの?」 「迷ったんだよ」 「嘘だね、ここ二階だし。あいつの部屋、行ってみたい?」  アスカの言葉で、僕は何故、散華の家を散策したのかを思い出した。散華の部屋に行きたかったのだ。彼がその場所で、何を思い、何を考えて死んでいったのかを知りたかったから。 「わかるの?」 「うん、来たことあるから」  アスカは、特殊な演出部のようなものに所属していて、軽音部の舞台演出を手伝っていた関係か、散華とも距離が近かった。その関係はただの先輩と後輩ではなかったように思う。二人はお互いをリスペクトしあっていて、近い距離で芸術についての討論をしていた。二人は対等な芸術家だった。アスカは、いつも余裕めいた態度で飄々と、軽やかに動き回っていて、その口に棒付きキャンディーを含んでいた。そんな彼も今日ばかりは、控えめな所作で僕の一歩前を進んだ。  散華の部屋は、二階の西側のいちばん奥にあった。旧家の家屋に急造のように作られた散華の部屋は、随分高い場所にあって、ラプンツェルの塔を彷彿させた。アスカが扉を開けると、風がわっと後ろへ引っ張られるように舞い上がり、奥の窓の向こうへ走り去っていった。次に、芳醇な百合の香りが鼻腔いっぱいに広がった。扉の奥は、まったく変哲のない、普通の高校生が暮らす一室だった。左奥に綺麗にされたステンレスのベッドがあって、右手の木の机には、教科書と学校指定のバックが下がったままだった。 「やっぱ片付いてる」 「もっと散らかってたの?」  そう言ってから、アスカの妙な表情で僕はハッとした。ここで散華は死んでいたのだ。百合に囲まれて。それを片付けたのは、必然だっただろう。僕は、散華が日常を暮らしたこの部屋が、いつもどのような感じだったのかをあまりにも気にしていた。 「老舗の旧家もこれで事故物件だな。日本家屋にそんな噂が付いたら、誰も買い手なんてつかないだろうね」  アスカは不謹慎にそう言って笑った。机に座って、棚に整理されている国語のノートを手に取って開いていた。 「散華の字だ。いる?」 「勝手に触っていいのかよ」 「いいでしょ。だってあいつ、もう居ないんだよ」  僕は散華に、いつも触れたかった。『散華』なんて名前、一度聞いたら忘れない。僕が高校の校舎の入り口で最初に出会ったとき、彼は水道の蛇口に口を付けて水を飲んでいた。誰かに上の階から「サンゲ」、とその名を呼ばれて、顔を上げた拍子に、勢い良く水が後ろを通りがかった僕の靴を濡らした。散華は慌てて僕に謝罪して、その手にあった清潔なタオルを僕にくれた。  部屋の窓の外、大きな松の木の奥に見える、高校の図書室。散華は、ここからいったい、何を見ていたのだろうか。  散華はその人生において、何がそんなに不満だったのだろう。彼が、その人生になにか不満があって、自殺するほど悩んで死んだのだとしたら、いっそ僕の平凡な人生と交換して欲しかった。僕のこの、色味のない人生をいくらでも変わったのに。 「ヤガミ先輩が、そんなこと思っちゃいけないよ」  アスカを振り返った。彼は手元のノートを見つめたままだった。心を読まれたような気分だった。 「散華は疲れてたんだよ。それで、静かに暮らしたかった。ただ、それだけだ」  そんなことを言うアスカは、相変わらず飄々としていて、悲しんでも苦しんでも、同情してもいなかった。 「アスカって、散華の何だったの?」 「え? うーん、なんだろうね。どうして?」 「いや、随分、冷めてるんだなって」 「そうかな。そう見えるだけじゃない? 割とちゃんと、悲しんでるよ」  アスカは証明してあげる、と僕に手を振って、部屋の窓から飛び降りた。僕は焦って窓から身を乗り出したが、そこには何もなかった。  ちりん、ちりん、と霊柩車の出る音が響いて、僕がハッと顔をあげると、松の木の上にアスカが座っていて、ケラケラと笑っていた。ほっと胸をなでおろしたとき、耳元で散華の嗤い声が聞こえた。 『おまえはいいな、ヤガミ』 (了)
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