或る秘密

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或る秘密

 山那緋夏(ひなた)は左手の指がなかった。小指と薬指の、第二関節から上がないのだ。二つの指の先はソーセージの端のようになっていて、力を籠めるとぷるぷる、と少しだけ動く。  彼は類まれなる美少年で、ちいさなその町の中でも目立つ存在だった。とにかく悪戯を好んで、彼はその中学生活を、人を笑わせることに注力していた。たとえば空手の授業中に、手本の方を見せるから相手をしてくれと先生に言われて挙手した彼は、先生が組手で向かってくるとそれをひょいとかわしてみたり、それから書道の授業中には学ランのままで挑み、制服か墨かわからないほどに手足を汚して大目玉を食らったりと、クラスメイト達をよく笑わせた。彼の笑いは誰かを傷つけることをしなかったので、全員から好かれた。その容姿に奢らず、明瞭で活発だった彼は学校中の人気者だった。  彼にはいささか変わった部分もあった。現国の授業で夏目漱石の英語のアイラブユーを「月が綺麗ですね」と訳すという逸話を、現代の自分たちが訳すとしたらどうするか、という課題の紙に「抑々愛とはなんぞや」とだけ書いて提出したり、図書室の棚を「ハムナプトラごっこ」とすべて倒してしまったりと、大人たちが手を焼いていたのも事実だ。  緋夏は僕にとって、ただのクラスメイトだった。そして、彼に関する秘密を一つだけ知っていた。いちど、その指をどうしたのか聞いたことがあった。日直を一緒に担当した彼が、宿題のプリントを床にぶちまけた日だった。 「ごめん」彼はすまなそうに笑っていた。「指が悪くて」 「その指、いったいどうしたの?」プリントを拾いながら僕は聞いた。 「小さいころ、ストーブに突っ込んだ」 「それは、痛かっただろうに」  僕たちは話をしながら廊下を曲がった。季節は夏で、その翌週に小学校が一緒だった同級生が誘拐されたと聞いたあたりだった。僕はそのころ美しい緋夏に得も言われぬ感情を持っていて、彼を見るたびに胸の内がすくような感覚があった。同性の彼にそんな気分にさせられることを受け入れられない部分もあった。少し前を歩く彼は、その日も相変わらず美しく、僕はその扇情的な夏の首筋を網膜に焼き付けるように見ていた。 「動くんだね、その指」 「まぁね。なくてもあんまり支障がないんだ」 「そうなんだ、器用だね。切断された指はどうしたの?」  僕がそう聞くと、彼が急に振り返った。そしてこういった。 「食った」  僕は勿論冗談だと思い、笑って流した。笑顔の彼には違和感があり、美しくも不気味に見えた。  僕たちは昨日、緋夏がこの町で二年前から起きていた連続少年惨殺事件の犯人だったことを知った。両親がおらず兄弟暮らしだった彼は、兄貴と協力して病弱な弟を食わせるため、財政が苦しくなったことを理由に、同世代の少年を誘拐して食料にしていたという。彼らはすぐに連行されていった。  僕はあの日の言葉が真実だったことに気づいた。彼はおそらく、幼少の折に自分の指を食べてその味に気づいたのだろう。彼は食糧難のために殺人を犯していたのではないのだ。  緋夏を最後に見たのは、数日前の学校帰りの橋の上だった。彼は大川を望むその橋の中央に立って、大きな声でうたっていた。何のうただったかは知らない。夕陽をその身に受ける彼は美しく、僕はそのとき自分の中に芽生えた激情を、必死に飲み下したのだった。 (了)
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