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秋に催花雨
金沢駅に着いたのは土曜の夜だった。雨降る日本海の側の空気は凛と冷え、吐息が薄く紅色のライトアップに溶けいった。浅野川のほとり、予約していた和食屋で、一人日本酒を煽った。
この秋、私は三十歳になった。恋人はもう六年もいない。周りの友達はどんどん結婚していくのに、私には指輪をプレゼントしてくれる相手どころか、誕生日を祝ってくれるような男友達の一人もいない。年齢に比例して理想も高くなる。幼稚にもシンデレラ思想が抜けず、この年になっても運命的な相手と出会うことを求める節がある。誰でも良いわけではない。操を立てている相手がいるわけでもない。そんなことをしているうちに、年齢だけが重なっていく。このうち最も恐ろしいのは、今迄の恋愛を振り返っても、相手のことをあまり覚えていないことだった。楽しかったことや辛かった思い出が、それなりにあるはずだと思っていた。私は自分を冷たい人間なのではないか、などと疑り始めたので思いきって旅行の準備をした。自分を見失いそうな時は、日常から離れるべきなのだ。東京から二時間ほどで、芸術とお酒をゆっくりと楽しめる場所がいい。そして三十歳を祝う自分への誕生日プレゼントとして、私は二泊三日の金沢ひとり旅に出かけた。
雨の降る秋になると、時々思い出すことがある。初恋についてだ。小学校の近くの秋桜畑で、一緒に授業を抜け出して遊んだこと。寝転がった端に彼が微笑んでいて、手を繋いだこと。触れた手のひらの熱さも、彼を思う気持ちも、今となっては記憶の中の出来事。彼は名前をアキといった。本が好きで、私をよくからかった。小六の秋に金沢に引っ越してしまい、それきり交流は途絶え、顔もほとんど覚えていない。けれど引っ越しの前日、彼が学校の階段で私にいった言葉だけは今も覚えている。
「きっと君を忘れない。またいつか必ず、会おう」
次の朝、私は片町のホテルを出て、にし茶屋街へ向かった。その日も雨が降っていた。途中、河川敷に色とりどりの秋桜が咲いているのを犀川大橋から眺めた。茶屋街のはずれに佇む和傘屋に足を踏み入れると、観光シーズン外であるからか店はがらんとしていた。レトロの内装の奥のカウンターに、店番の男がひとり背を向けて座っていて、煙管を吸いながら分厚い文芸書を読んでいるのが見えた。
「いらっしゃい」
彼は客の来訪に腰をあげて、和装の裾を正す。博識そうな男だった。彼は店先に突っ立ったままの私を少し眺めて、それからにこりと微笑んだ。
「和傘ですか?」
「ええ、初めてなんですけど。少し重いかしら」
私の言葉に、男は店頭にある鮮やかな桃色の和傘を持ち上げた。
「最近のはそうでもないです。僕が作ったのも、女性向けに軽量化してあるんですよ」
「お兄さんが作ったんですか?」私が聞くと、
「この傘には秘密を仕込んであるんです」と彼は言って、表へ出た。
曇天の茶屋街に一本の芸術が色をさす。傘は淀んだ風景の中で最も凛としていた。作り手は店頭に立ち止まっている私を手招きする。私は傘の裾下を見た。そこには陽光と秋雨を受けて艶やかに光る、秋桜の模様が浮かび上がっていた。その美しさに、私は息をのむ。
「雨に濡れると花が浮かび上がる仕組みです」
彼は言った。同時に秋桜の中の初恋の思い出が鮮やかに蘇った。雨の日の光と、熱と輝き。横の男は私を見つめていた。眼鏡の奥に太い眉と濃い二重を隠していた。不思議と懐かしい感覚に陥った。
「芸術的な感性が豊かなのね」
男との不自然な間を取り繕うように言って、私は傘から出た。
「僕の初恋から着想したんですよ」
彼は和傘を畳みながら伏目がちに続ける。私はその声だけを聴いていた。
「今も覚えてますよ。秋桜の花畑で、雨の日に一緒に遊んだこと」
そんなはずない、そんな偶然、あるわけがない。
「よく二人で学校を抜け出して、近くの秋桜畑で遊んでいた。小雨が降ってたけど晴れていて、寝転がった彼女の髪から、雫が落ちていくのを、ただ見てた」
手に触れることにも躊躇するほど大切にしていた思い出が、まざまざと蘇る。
「私の初恋がすごく似てるの」
私は思わず口にしていた。
「好きだった人がいたの。時々二人で校庭の裏にある秋桜畑に行ってた。けれど引っ越しが決まって、その子は金沢に」
男は黙って話を聞いている。私が顔をあげると、目の前の彼も、信じられない、といった表情で私を見ていた。
「本当に、ハルなの?」
私は息が出来なかった。彼の漆黒の瞳を見つめ返す。
「まさか、アキ?」
目の前の彼は深く頷いた。その目の奥に秋桜の雨の思い出が差し込んでくる。二十余年ぶりの運命的な再会に、私たちはしばらく声も出せなかった。
その日の夜、アキが招いてくれた香林坊のシックなジャズバーでは、パーシー・スレッジのレコードが流れていた。私たちはお酒を片手に向かい合って、たくさんの思い出話をした。
「あなたいつも図書室にいたわ。見かける度に違う本を読んでるの。それから、私をいつもからかうの。初めて話した時も図書室だったわ、あなたこう言ったの――『君、幽霊塔をいちども読んでないの?』って」
吹き出したアキの笑顔には、当時の面影があった。
「君は、なんというか、好戦的だったね。曲がったことが大嫌いで、いつもクラスの男の子達と取っ組み合いをしてた。君は僕の世界のすべての中で、いちばん正しい女の子だったよ」
アキと話す度、昔のことが思い出される。彼はいつも私をからかって、それでも私の行動を肯定していた。私が友達と大喧嘩して沢山の人に怒られた日も、彼は同じように肯定の言葉を投げてくれた。
「最後の日に話したこと、覚えてる?」
私は頷いた。アキが目の前にいる。私の瞳を見つめている。
「本当に?」
アキの言葉に、私は首をもう一度頷く。
「そうだったんだ」
正面のアキが私の手を握る。彼の表情は暗かった。
「本当のことを言うね」男らしく分厚い手だった。
「僕は、辛かった。君と会えなくなったこと。けれど大人になるにつれて、悲しみは薄れていった。君のことは、僕が生んだ妄想だったんじゃないかってさえ思った」
私は彼の薬指にずっと光っているものの存在に、気づかないふりをしていたかった。こんな時くらい、外してきてくれたっていいのに、と思う。けれど私は、彼の裏表のない性格が好きだったことも思い出していた。
「結婚したのは、君との約束を諦めていたからだ」
私は彼から目を逸らす。思い出したのだ、彼と別れたあとの辛い日々を。もう学校で会うこともできない、一緒に遊ぶこともない。それならいっそ、手紙など書くのも諦めて、存在ごと忘れてしまったほうが楽だ、と思ったこと。私たちは未成熟で純粋だった。ゆえに傷つき、そして時が流れるにつれ傷の痛みも薄れ、美化された思い出だけが清廉なまま残った。
「責めたりしないわ。私だってそうだもの」
誰でも良いわけではない。けれど操を立てている相手がいるわけでもない。本当にそうだったのだろうか。本当に忘れられないことというのは、いつの時代も叶うことのなかった初恋だったのではないだろうか。
「奥様はどんな方?」
私は開き直ったようにそう言い、また笑顔でアキの顔を見る。彼は恥ずかしそうな顔で少し笑った。
「上手く行かなかったんだ」
そして続ける。
「どんなに時間が経っても、君を忘れられなかった」
パーシー・スレッジの切ないしゃがれた歌声が聞こえる。女に振り回される男の心情を歌った有名な曲だ。私は声を発してしまいそうだった。
「二十年以上前の、子供の身勝手な約束だよ。馬鹿馬鹿しいなんて、僕が一番わかってる。永遠なんてものはないし、人間は変わる。そればかりか僕が好きだったその子は、転校してから一度だって手紙の返事をくれなかったし、僕のことなんて忘れているんだから」
切なく潤んでいる瞳に、こちらの涙腺も緩む。
「もう、一生独り身でいいと思っていた。だからこれは、純潔を誓うためのものだよ」
アキはそう言って左手の指輪を撫でた。
「私のこと、ずっと好きでいてくれたの?」
私の声は震えていた。彼は優しく笑った。今まで忘れていた唯一の情熱が身体の芯を燃やしていることに気づいた。私はこれを長く失っていたのだ。この出会いが再び訪れるのを、ずっと心待ちに生きていたことに漸く気づいた。
金沢での最後の朝は容易に訪れた。金沢駅の改札口に、私はアキと立っている。とてもおかしな気分だった。三日前までの自分はまるで別人だったかのように感じた。
「傘は?」
「送っちゃったわ。荷物になるもの」
「君、昔から妙にさばさばしていたよね」
「あら、少なくとももう、田舎町に取り残されるだけの女の子じゃないわよ」
「そうだね。もう色々、すっかり大人だし」
アキはそう言って、私に花束を渡した。色とりどりの秋桜だった。
「荷物になるわ」
「うん。それでこそ君だよ」
と言って苦笑いした。随分と大人になったのに、あの頃と同じ太い眉と浅黒い肌だけが変わっていない。年齢だけが変わっただけで、私とアキの関係は、二十年経っても変わらないらしいのだ。今日のこの日、私たちの人生の続きが漸く訪れた。
「次は僕が君に会いに行くよ」
「また二十年後かしら」
私が笑っていると、アキは自分の左手の薬指から指輪を取って、私の指に付け替える。
「また来月」
そうして笑った。指輪には秋桜の彫り物が光っていた。今度こそ私は、彼の腕の中で泣いた。
(了)
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