103.ずっと見ていたからね

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103.ずっと見ていたからね

 馬の背で風を切る。それは憧れ続けた自由を感じさせる行為だった。指示した方へ進むリディの足は軽く、時折私を気遣う余裕もある。首を撫でてやり、そのまま進んだ。 「ティナ、そっちは川がある。戻っておいで」  川なら休憩にちょうどいいわ。呼び戻す兄の真意を理解せず、私はさらに進んだ。川岸に大きな段差があるとは知らず、崖と呼ぶほどではない高低差に慌てる。ずり落ちたリディのいななきが響き、背中から落ちた私は苦しさに胸を押さえた。  吸い込もうとするのに、息が上手に吸えない。混乱する私はそのまま意識を失った。 「起きたんだね、愛しい人」  柔らかく聞こえる声に目を開くと、見覚えのない青年がいた。まだ若く、兄と同じくらいかしら。動こうとしたら体中が痛くて、思い出した。リディは無事? 私のせいで足を折ったりしていないか心配になる。馬は足を折ったら終わりなのに。 「まだ動かないで」  優しい手で、青年は私の手当てを進める。大きな布で肩を包んで背中まで固定した。柔らかなクッションで包んでもらい、ようやく痛みが和らぐ。 「あなた……」 「ああ、ごめん。僕はパトリスだよ」 「セシャン伯爵家の?」  貴族名鑑は丸暗記した。ジュベール王国の前回の貴族はすべて頭に入っている。それは家族構成にも及んだ。領地を治めることに長けたセシャン伯爵家は、王都のすぐ近くに位置する。先代は子爵家だったが、莫大な納税額で王家に引き立てられた。このパトリスの父が功労者だ。 「知っててくれて嬉しいな。僕も前回の記憶があるんだよ」  伸ばした手が私の金髪を撫でる。優しい手なのに、なぜか怖かった。この人は今の顔以外にも何か隠してる。そう思えて、口を噤んだ。余計な知識や情報を与えてはいけないわ。  この場所はどこかの小屋らしい。家ではない。ベッドなどの家具もないし、がらんとしていた。物を運び出した物置のような印象を受ける。肌寒さを感じるから、もう夕方なのかしら。日差しが遮られて薄暗い小屋は、時間を察する物がなかった。 「助けて、くれたの?」  沈黙に耐えかねて口を開くと、彼は嬉しそうだった。機嫌よく微笑みを浮かべて頷く。 「そうだよ、ずっと君を見ていたからね。落馬した君をすぐ助けることができた」  怖い。ずっと見ていたって、どこから? いつからなの? あの時後ろにはお兄様が近づいていた。なのに、私を家族から引き離して何をしたいのか分からなかった。  人質? 前回の記憶があると言った。ならば今回の運命が気に入らなくて変えようとする人がいてもおかしくない。逃げる方法を探すため、ゆっくりと深呼吸してから小屋を見回した。  ガタン! 外で音がする。そちらに首を向けるが、肩がひどく痛んだ。 「痛いっ」 「動いたらいけない、治療も応急処置なんだからね」  言い聞かせる内容は正しいのに、ぞわりと肌が粟立った。舐め回すような粘質的な声が背筋を凍らせる。ずりっと身を引いた音に重なって、男の怒号が聞こえた。  お父様、お兄様、助けて。カール、リッド、私はここよ。心の中で必死に助けを求めた。
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