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グラスを打ち鳴らす涼やかな音の余韻が、暖房の心地よく効いた店内の空気を縫っていく。
多香江と母の香織が傾けたグラスの中身はシャンパンで、このイタリアンレストランの目玉だった。
二十歳になって初めて酒の味を知った多香江は、親譲りの体質かアルコールに強く、こうしてしばしば母と出かけては、様々な酒を酌み交わしていた。そうしたとき、一杯目に必ず乾杯をするのが母娘の習わしともなっていた。
幸一から受け取った給料で家賃や光熱費などの経費を振り込むと、手元に残った金額は半分近くにまで減っていた。それでも埒外な贅沢さえしなければ、一ヶ月間をじゅうぶんに暮らせる額でもあった。
それにお金が残った月は、わずかながら貯金にまわすこともできた。頻度自体は少なく、積み立ててきた金額もほんのわずかだったが。
その日、母から電話があったのは多香江がどこかに出かけようかと考えていたときだった。訊けば、母も横浜まで買い物に出る予定があるのだという。
夫の影がちらつく家にひとりでいるよりもまし、そう思った多香江は母の誘いに応じた。
昼過ぎに落ち合ってから遅めの昼食をとり、ふたりで百貨店を中心に洋服を見てまわった。はじめのうちこそ品物を見るだけにとどめ、よほど欲しくなったもの以外は買わないと心に決めていた多香江だったが、母の勧めに応じるまま色々と手にとっているうちに財布の紐も緩んでしまい、喫茶店で一休みといった頃には、肩に大きな紙袋をかけていた。
紙袋には新しいバッグとスカート、それから化粧品などの小物が戦利品のように詰め込まれていた。その中身を覗くたび、多香江は後ろ暗い喜びを感じた。
今月は節制しなくてはならない。場合によっては、自分の口座から貯金を少し崩す必要もありそうだ。
それでも今日一日、気心の知れた母と出かけられたのは有意義でもあった。
喫茶店を出てもうひとまわりしたあと、母は夕飯も一緒に食べようと持ちかけてきた。
多香江は少し考えたものの、いつになるかわからない幸一の帰りをひとりきりで待つことを思い、これを承諾した。母が夕飯代を出すと言ってくれたのも大きかった。
“母と夕飯を食べてきます。帰りは遅くなります”
迷った挙句、幸一にはそうメッセージを送っておいた。連絡を入れなくても差し支えないと思ったのだが、こうしておいたほうが角が立たないと思ったからだ。
“わかりました。帰りは何時になりますか? 駅まで迎えに行きます”
買い物袋を駅前のコインロッカーにしまってから店に向かう途中で、幸一からそう返信が届く。
多香江は連絡を無視した。
「このお店、予約してたんでしょ?」食事とお酒もすすみ、仔牛のフィレ肉を切り分けながら多香江は訊ねた。
「さあ、どうでしょうね」香織はそう言ってシャンパンのお代わりを飲み干した。
「ごまかさないでよ。そのシャンパン、予約しないと飲めないんでしょ? さっきメニューにそう書いてあったの見たのよ」
「まあね……いいじゃない、たまには。あんただってそれを承知でここまできたんでしょ」
「それは、そうだけど……」
言いくるめられたことが癪に障り、多香江は料理を頬張った。
母はこうして、しばしば多香江を共犯者のように仕立て上げてくる。それどころか、主犯格にしようとさえする。そうして彼女につけいる隙や弱みを作り、自らの支配下に置こうとしているのだ。
多香江はそれを承知していながら、母を頼るより仕方なかった。父親はとうの昔に死別、夫はあの有様だし、友人にもいまいち心を許せなかった。
たとえ自分の孤独を埋めるために利用されていようと、母だけがいまの多香江にとって唯一の心の拠り所であり理解者だった。
ならば、母のこうした他意のある振舞いも大目に見ることができた。そうした態度の裏に、母もまた多香江に寄り添わずにはいられない弱さを垣間見ることができたからだ。
レストランにいるあいだ、母との会話は多岐に渡った、多香江の子供の頃の思い出話、最近観ている共通のドラマの話題、母の親戚の話、今度行きたい都内のホテルのラウンジの話……来月ふたりで旅行に行こうという母の誘いには、さすがの多香江も辟易した。
母は唯一、幸一のことだけは話題にしなかった。意図的に避けていたのかもしれないし、そもそも念頭にもあがらなかったのかもしれない。
真意はわからなかったが、母が幸一のことをあまり快く思っていないことは確かだった。
〝母はもう、君塚さんのこと忘れてるんじゃないですかね〟
ふと、自分が昔言った言葉を思い出す。
幸一に向けた言葉だったが、それはいつ、どのような経緯で口にしたかは忘れたし、そもそも本当に言ったのかどうかさえも曖昧だった。
「もう、いつまでもぶすっくれてないの」
母がかけた言葉に多香江は顔を上げた。いつの間にか深く考えこんでいたらしい。
「悪かったわよ、騙すようなことして。デザート食べましょ。それで機嫌直して」
ウェイターを呼ぶ母の横顔を見ながら、多香江はこんな質問が口を突いて出そうになるのを堪えた。
ねえ、お母さんは君塚さんとのことで、なにか覚えてることある?
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