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 母と別れて家に帰り着いたのは夜の十時過ぎだった。したたか飲んでふらついた足取りにも関わらず、すんなりと帰宅できた。  幸一と付き合っていた頃も一緒に酒を飲む機会はあったが、その頻度も別れ話を切り出す前にはだいぶ減っていた。幸一がデートのときによく車を出してくれたのもあるが、多香江自身、段々と彼の前で素面でいないことに抵抗を感じていたからでもあった。  それでも付き合いはじめの頃は、ふたりでよく色んなお酒を試してもみたし、飲む量もそれなりに多かった。  だが幸一の飲む量が以前と変わらなかったのに対し、多香江のほうは調子を合わせる程度に一杯飲むだけに変わっていった。それでもお酒を飲むこと自体は好きなので、今日のように母と一緒に飲めたのは素直に楽しかった。  だがそんな愉快な心持ちも、家の中に人の気配がしなかったことでいっぺんに醒めてしまった。  今朝のように家に人がいないことはすぐわかったが、同時に幸一が一度帰ってきていたこともわかった。玄関の電灯がついていたからだ。  まっすぐな廊下からリビングにつながるドアは開け放たれており、突き当りのベランダ窓からはレースのカーテン越しに住宅街のつましい夜景が見える。そのあいだに横たわる闇が、玄関の明かりの下に立つ身にとってはより深いものに思えた。  多香江はその暗がりを打ち払うように廊下の電灯をつけた。  玄関には下駄箱に入りきらなかった多香江のロングブーツだけが置いてある。幸一が持っているのは通勤用の一足だけで、それが無いことは、彼が出かけているのを意味する。  だが、どこに出かけているのかはわからなかった。玄関ドアと共用廊下のあいだに跨ったままの多香江は、結局一歩進んでドアを施錠すると靴を脱いで家にあがった。  当然、家の中にも幸一はいなかった。  だが夫が脱いだ靴を持って家のどこかに身を潜めているのでは、という考えがひとたび浮かぶなり、多香江はその可能性を潰しておかずにはいられなかった。  壁のスイッチを押しながら廊下を進んでキッチンテーブルまでたどりついたときには、家じゅうが明かりで煌々と照らされていた。  多香江は着替えるどころかコートを脱ぐこともせず、ダイニングテーブルの前に座ったままじっとしていた。  今日一日、買い物や食事で得られた幸福感が、身体の中でしおしおと萎んでいくのを感じる。入れ替わるように存在感を増していったのは、夫に対する悪感情だった。  携帯電話で連絡をとろうとしたが、やめた。これでは多香江が幸一の心配をしているようで癪に障ったからだ。いくら相手の居場所が気になるからといって、そんな行動で夫にあらぬ誤解を招くようなことはしたくなかった。  それにしても、幸一はいまどこにいるのだろう。  座椅子を除けば全財産が衣装ケースひとつに収まってしまうような夫……もしかすると、彼はどこかへ行方をくらましてしまったのではないか。  無職で、ろくな貯金もない賃貸住まいの妻をひとり残し、どこかへ消えてしまったのでは?
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