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 そんなはずはない、と多香江はその考えを打ち消した。  幸一は毎月、多香江に給与の全額を渡してくる。給与明細まで添えているのだから、へそくりを作ることもできない。つまり彼がどこかへ行くにしても、そもそも先立つものがないのだ。  だが、幸一の収入がもっと多いのだとしたら話は変わってくる。彼が副業かなにかをしていて、多香江も存在を知らない口座に稼ぎを貯めこんでいるのではないか。  それに、彼女が毎月渡している小遣いもある。どんなやりくりをしているのか想像もつかないが、この三年間でこつこつと貯めていけばそれなりの額になるのではないか。 「それに、お義父さんとお義母さんもいる……」多香江は呟いた。  幸一の両親は高齢ではあるが存命で、同じ県内の地方都市に一軒家も構えている。彼らの暮らしぶりがどんなものかは知らないが、少なくとも夫が当面のあいだ身を寄せられる場所にはなるはずだ。  根拠も理屈もない発想だったが。多香江は両手の指を強く組んだまま、とりつかれたようにこの考えに頭をめぐらせた。  だとすれば、自分は今後どうすればいいのだろう。  いや、それどころかすっかり散財してしまったいま、当面の生活を乗り切れるかすら怪しいものだ。  寝室のクローゼットにしまった自分の預金通帳の存在が頭をよぎったが、たいした額は貯まっていない。いや、正直に言えば、帳面を開いて見るのも怖くなるくらいの貯金しかない。  いまから働くにしても、一線を退いて久しい専業主婦を雇ってくれる会社が見つかるまでどれぐらいの時間がかかるだろうか。  給料が支払われるまでにはどれぐらいの時間がかかる? そのあいだはどうやって生活していけばいいのか?  友人の奈々子か母を頼るという考えも浮かんだものの、多香江はすぐに思い直した。  自分と同じく家庭を持つ奈々子を頼るというのは現実的ではない。仮に彼女の家に転がりこむことができたとしても、いずれは難渋を示され、場合によってはお互いの関係が破綻をきたしかねない。  かといって、実家に戻ることもしたくなかった。  幸一との結婚をいまでも良く思っていない母がこの状況を知ったら、必ずそこにつけこんでくるはずだ。多香江の一時帰宅を別居にまで拡大解釈し、離婚すら迫ってくるかもしれない。母は自分の孤独をまぎらわすためなら、娘の戸籍が汚れることだって厭わないだろう。  離婚、という言葉がひらめき、多香江はふと顔をあげた。  もしも幸一が多香江と別れるつもりなら、こんな失踪まがいのことをするだろうか。  姿を見せないにせよ、多香江が書き込む以外の欄を埋めた離婚届でもテーブルに置いていそうなものだ。多香江が働いていたときから、その仕事ぶりに真面目さが出ていた彼の性格を考えると、むしろ規範や常識に基づいた行動のほうが自然に思える。 「それに、わたしは会社の場所だって知ってる……」多香江はふたたび呟いた。その声には、先ほどまでの絶望はにじんでいなかった。  片思いだった頃、いけないことだとわかっていながら会社が保存していた幸一の名刺を盗み見たことがあった。  恋心が成せる業か、多香江は一度目にしただけで幸一の会社用携帯の番号から会社の本籍、営業所の住所まで暗記し、そしてそれはいまでも記憶の中に留まり続けている……もっともいまとなっては、この記憶は若気の至りで彫ったタトゥーのようなものではあるが。  会社ではそれなりに責任ある立場にいる幸一が、おいそれと仕事を辞められるとは思えない。それに、もし会社を辞めていたとしても、妻であれば夫の行方の手がかりを訊きだせるかもしれない。  今夜幸一が帰ってこなかったら、明日の朝に彼の会社を訪ねてみよう。  やるべきことが決まったからか、多香江のざわついていた心は落ち着きを取り戻しつつあった。
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