現在 2

5/5
前へ
/52ページ
次へ
 玄関のほうで鍵の回る音がし、ドアが開いたのはそのときだった。  家じゅうの明かりがついていたので、多香江のいる場所からも玄関で靴を脱ぐスーツ姿の幸一を見ることができた。椅子から立ち上がり、廊下を突っ切って夫へと向かっていく。 「帰っていたんですか?」かがみこんで靴を揃えていた幸一が振り返る。 「どこ行ってたのよ?」多香江は両手に腰をあてて問いただした。 「少し……出かけていました」 「どこに?」妙に間延びした答えにむっとしてしまう。「家を空けるなら連絡入れてよね。こんなに遅くなるなんて……もう夜中の十二時まわってるじゃない」 「申し訳ありません」  幸一の言葉からはなんの感情も見えてこなかった。そもそも結婚してからの三年間、夫が感情をはじめ、人間らしいところを見せたことがあっただろうか。  無い。多香江はすぐにそう結論づけた。  幸一は朝起きて会社に行き、夜帰ってきて眠る。給料日には稼ぎの全額を多香江に手渡し、自身はいっさいの贅沢もしない。  そういえば、休日にふたりで出かけるということも一切無かった。  多香江はいよいよ、目の前にいるこの男が得体の知れない存在に思えてならなかった。どうしてこんな男とひとつ屋根の下で三年間も暮らしていられたのか。  いや、実際のところ多香江はもっと前から幸一の持つ異様さを感じ取っていた。それに気づいていながらも目を背け続けていた。いまの不自由のない生活を送っていくために、多少の違和感からは目を背けていたのだ。  幸一の行方を気にかけていたのは彼の身を案じていたからではなく、ある面ではひとり気ままなこの生活が終わってしまうことを恐れたからではないか。  幸一が帰ってきたことへの安堵と、心配をかけられたことへの苛立ち。それに自らの生活を守るためという自分勝手な考えに気づき、夫の根底に横たわる正体不明のなにかにも気づいた。  内面がまぜこぜになった多香江は、それをひとつの怒りにまとめて吐き出した。その怒りは、なにより幸一に対する恐怖を塗りつぶすために呼び起こされていた。 「もういい。わたし寝るわ」  多香江は踵を返すと、足早に寝室へと向かった。背後から感じる幸一の視線から少しでも早く逃れるために走り出したい、という欲求を必死に堪えていた。 「おやすみなさい」  幸一が多香江の背中に声をかけてくる。抑揚に欠け、冷たいとさえ言える声で。  我慢の限界をむかえると同時に、多香江は寝室に滑り込んでいた。  後ろ手にいきおいよく閉めた引き戸が深夜の空気を震わせた。
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

106人が本棚に入れています
本棚に追加