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過去 2
会社は違えど、交際当時の多香江と幸一は同じ業界に身を置いていた。
そんなたどたどしさがお互いに残る付き合いたての頃、ふたりは自分たちに関するある決め事について話し合っていた。つまり、ふたりが恋人同士であることを周囲に言うべきかどうか。
幸一は黙っているべきだと言った。多香江の職場での心象に影響しないように、という配慮が彼の理由だった。
多香江も同じ意見だったが、彼女が黙っていたかったのは、周囲にふたりの関係がばれるのをなんとなく気恥ずかしく感じていたからだった。
両者の真意の差はともかくとして、ふたりはこの関係を伏せておくことにした。
〝吉野さんはどうしたいですか?〟というのが、幸一の口癖だった。
ふたりのことを黙っておくべきかどうか、その考えを多香江から切り出したときも、彼はそう訊ねてきた。
多香江もはじめのうちこそ、幸一が相手の意見を尊重してくれる人なのだと思っていたが、違った。彼は単に決断力がなかったのだ。
デートの夕食ひとつとっても、幸一はそれを決めあぐねたものだ。多香江はそんな恋人に対して、空きっ腹と一緒に煮えきらない思いを抱えていた。
それでいて、幸一は一度決めたことは頑として譲らない面も持っていた。
付き合い始めて数ヶ月が経ったとき、多香江が別れを切り出したことがあった。その後もしばしば繰り返された別れ話の記念すべき第一回目だった。
きっかけは、いま考えると些細なことだった。
多香江の会社に営業活動で訪れていた幸一が、ほかの事務員と親しげに話しているところをたまたま目にしてしまったのだ。
相手は既婚者だったし、聞こえてきた内容もごく普通の世間話だった。だが、幸一が相手に見せた屈託の無さを、多香江は見たことがなかった……その笑顔や振舞いは、それまで自分に向けられたことがないものだった。
これが嫉妬という感情なのだろうか。心の冷静な部分で多香江はそう分析していたが、残りの部分が激しくかき乱されるのも感じていた。
生まれて初めてできた好きな人に対して持った、新しくも薄暗い感覚を持て余していた。
結局、多香江は覗き見をしていた場所からそっと離れると、それからしばらくのあいだ幸一によそよそしい態度をとってしまった。彼に非が無いことなどわかっているのに、自分の気持ちをどうすることもできなかった。
知人同士の世間話に妬いたという事実を笑い飛ばせるだけの強さはなく、こんなことを幸一本人に打ち明けでもしたら嫌われてしまうのではないかという不安ばかりがわだかまっていた。
結局多香江は、抱え込んだ嫉妬心に押し潰されないよう、ただじっと耐えることしかできなかった。
そんな欝々とした日々を過ごしたことで、多香江はとうとう幸一に別れを切り出したのだ。いま思えば、毎日感じていたストレスから逃れたい一心で、ふたりの関係に対して突飛な行動をとってしまったのかもしれない。
もっと方法があったのかもしれない。だが、塞ぎこんでいた多香江にはこうするよりほかに手段が無いように思えた。
ふたりの行きつけの喫茶店に幸一を呼び出した多香江は、会社の同僚と仲良く話しているところを見て妬いてしまったこと、その気持ちを自分ではどうしてもうまく処理できなかったこと、それからこの気持ちを解消するため、お互いに距離を置きたいことを幸一に打ち明けた。
幸一ならきっとこの気持ちをわかってくれる、そう思った。
〝吉野さんはどうしたいですか?〟が口癖の幸一なら……だが彼の答えは多香江にとって予想外のものだった。
「僕は、吉野さんと別れたくありません」状況を飲み込めずにいる多香江に、幸一はこう続けた。「嫉妬させてしまったことは謝ります。でも、急に別れを切り出されるなんて悲しいです」
「それは……」
「次にまた同じ気持ちになったら言ってください。すぐに直しますから」
「直すなんて……わたしがいけないんです。君塚さんにそんなこと頼むのは悪いです」
「黙っていられることのほうがよっぽどつらいですよ」
いつになく真剣な様子の幸一に、多香江は口をつぐんでしまった。
「吉野さんの気持ちがつらいのもわかります。でもなにが原因で、どうつらいのか……僕は超能力者じゃないから言ってもらえないとわかりません。だからお願いです。なにかあったときは相談してください、直しますから。それでも吉野さんがつらく感じるなら言ってください。そのときは、また別の方法を考えます」
多香江は頷き、ふたりの関係は続いた。
しばらくして、多香江からの提案で幸一が敬語を使うのをやめてくれた。それは会社や社会という枠組みから、ふたりの関係が一歩前進できた証のようでもあった。敬語を使わない幸一の姿は、自分しか知らないものだと実感させてもくれた。
だが、別れ話をしたときに幸一が発した言葉は、多香江の中でいつまでも残り続けた。
〝僕は超能力者じゃないから言ってもらえないとわかりません〟
幸一が超能力者でないことなど、当たり前の話だ。しかしその言葉には同時に、どこか多香江を突き放すような響きがあった。
わがままであることを承知で言えば、多香江がデートの夜になにを食べたいか、ほかの女の人と話しているところを見てどう思っているか、言葉にしなくてもわかってほしかった。
だが、多香江が自分のそんな感情を言葉にするのは難しかったし、そうした機微を幸一が察してくれる望みも薄かった。
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