現在 3

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現在 3

 憂鬱な朝がはじまる。  目を覚まし、眠りという糖衣を剥がされて現実が露になるにつれ、多香江はそのことをじわじわと実感していった。  土曜日……会社が週末の休みに入るこの日は、どれだけ朝寝をしていても夫が出かけてくれることはない。  幸一は午前中から活動を起こしていた。洗濯機をまわし、掃除機をかけ、トイレを磨き、風呂場を洗った。  リビングを行き来する気配がし(当然ながら、夫の足音は聞こえてこない)、ベランダで洗濯物を干す動きがかすかに感じ取れる。  軽い尿意と喉の渇きをおぼえながら、多香江は窓辺から見える様子を想像した。夫の部屋着と下着、それにワイシャツと毛布が風になびいている様子を。  幸一は一週間のこの日に次の週の支度を整え、身体の疲れを癒す。おそらく、毎週のこの日課がなければ夫はとうの昔に身体を壊していただろう。多香江もそれがわかっていたので、このときばかりは大人しく過ごし、彼の好きなようにやらせていた。  幸一も若い頃は、週末となれば遊びに繰り出していたという。  多香江とのデートはもちろんのこと、彼女と予定が合わないときなどは友人たちと集まって遠出をしたり、お酒を飲んだりと忙しくしていたようだ。  だがそうした交流は、多香江との結婚を機にぱったりと途絶えていた。彼女が見る限り、連絡を取り合っている様子さえもない。  なにせ幸一は多香江との結婚が決まるなり携帯会社との契約を辞め、プリペイド式の携帯電話に持ち替えたのだから。おそらくいまの幸一の電話帳には、多香江のものを除けば職場と実家の番号ぐらいしか残っていないだろう。  特別大きなイベントを開くことも参加することもなくなった幸一は、かえって完璧と言っていいほど規則正しい生活を送っていた。  ひととおりの仕事を終えた幸一が自室に戻る気配がしたのは、昼の十二時頃だった。  尿意と喉の渇きの限界をむかえていた多香江は、ベッドから出るなり素早く、だが慎重に寝室のドアを開けた。案の定リビングに幸一の姿はなく、先ほど多香江が想像していたとおりのベランダの光景だけが、夫がさっきまでここにいたことを示していた。  多香江はベランダのこの様子を、過去何度となく見ていた。夫の規則正しさは洗濯物を干す場所から並べる順番に至るまで、随所にあらわれている。先週と同じ今週のこの風景は、きっと来週も変わらないだろう。見馴れた繰り返しは円環のようであり、多香江に出口という概念を禁じているようだった。  円環、という言葉に、無意識のうちに左手の薬指に手を伸ばしてしまう。結婚後半年まで結婚指輪をはめていた場所だ。  夫の異変(そう言って差し支えあるまい)を感じ取ったあと、外した指輪は引き出しの奥にしまい込んでしまった。そのことに、幸一はなにも言わなかった。 〝死がふたりを分かつまで〟という言葉があるが、いまの多香江にとってそれは愛情の大きさを示す表現ではなく、現実というのしかかる重圧でしかなかった。  用を足したあと、なにか飲もうと冷蔵庫を開け、中身が空っぽであることに気づく。  しばらく悩んだが、やがて多香江は身支度を済ませて近所のスーパーに出かけた。毎月の給料日で小遣いと一緒に幸一に食費を渡していれば、きっとこんな面倒も避けられるのかもしれない。きっと夫は、彼女が頼みさえすればいつでも買い物をしてくれるだろうから。  だが多香江は、自分が口に入れるものはどうしても夫に任せたくなかった。  家を出るとき、多香江は幸一の部屋の前で足を止めた。室内からはかすかに鼾まじりの寝息が聞こえてくる。  その事実は多香江を無性にほっとさせた。口元に笑みさえこぼれた。  少なくとも、感情を見せない夫にまだ人間のような部分が残っていることがわかったからだ。
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